やれやれ、やっと荷作りが終わりました。あと二時間もすれば空港宅配のヒトが受け取りに来てくれます。
荷作りの苦しさは作るところではなく、減らすところにありますよね。さあできた、と量ってみると26キロ、スペインから帰ってくるときは空港のチェックイン時に荷物の重さを量る機械が壊れていたりして、結構どうでもいいのですが、日本から発つときはそれは期待できないし。しかもBAなのですが、重量制限が鬼のように厳しかった、という印象があるのでなおさらです。さあ何を減らす、本か辞書かだしのもとか?! さすがに仕事に必要な辞書を置いていくわけにもいかず、泣く泣くだしのもとを諦めたのでした。1キロの大箱だからなあ・・・。
昨日まで友人と会いまくり、飲んだくれ、事務手続きに仕事に走り回っていましたが、ようやく一段落つきました。でもふっと「また動くんだなあ」という実感が湧くのは、こうやって一段落ついたときですよね。昨夜は友人宅に転がり込んだのですが、くうくう寝ている彼女の隣で目がすっかり冴えてしまいました。なんというか、先取りしたホームシックというか。どこにも行きたくないなあ、と思う一瞬がどの出発の前にもあります。
自分で選んでやっているんだとわかってはいても、私は別れは大嫌いです。小さなころから引越しが多い中で育ってきたので、今日一緒にいる人と、いつの明日も一緒にいられるわけではない、というのは昔から身にしみてわかっていたような気がします。友人でも誰でも、好きな人に「また明日ね」といって別れることができるのは幸せなことで、また明日同じ顔を見ることができる、というのは幸せな日々なのだと思います。
でも「また明日ね」と言えない日がくるわけで、それは仕方がないのだけれど、とてもさびしいことですよね。それだから、足があって、それに電車も車も飛行機もあって、行こうと思えばどこにでも行ける私たちが選んで誰かと一緒にいる瞬間、というのは奇跡のようなものだと思うのです。樹か何かのようにいつでもそこに生えている、というのではなく、動ける存在だからこそ。
そしてその時間がずっと続かないのはさびしいですが、やっぱり結局はそれぞれの方向へ動いていかなければならない、ということなのだと思います。足があるから。