発売中の週刊文春11月8日号のミステリーレビューでミステリ評論家の千街晶之さんが
『犯罪者 クリミナル』を取り上げて下さっています。
今回は先輩からの一報を受けて書店に直行。
さまざまな視点から事態の進展を多角的に捉えた構成はスリリング。著者自身の脚色による映像化も見てみたいと感じた。
とても光栄です。ありがとうございます。
是非、お手に取ってレビューをご覧くださいませ。
『犯罪者 クリミナル』の「お立ち読みページ」へのリンク、
またインタビューへのリンクは、トップのメッセージボードにもございます。
よろしければ、お立ち寄りください。→こちら
11月23日(金)~25日(日)にかけて、『第三回 三鷹コミュニティ映画祭』が開催されます。
映画監督の鶴田法男さんと元三鷹オスカー番組編成のお兄様が中心となってなさっています。
学生時代、『三鷹オスカー』ではいくつもの名画と出会いました。
『三鷹オスカー』のような名画座が復活してくれるといいなと思います。
今回も充実のラインナップです。
お時間がおありの方、是非、足をお運びください。
*詳細はこちらです→http://cinema.mall.mitaka.ne.jp/
街はいよいよ晩秋から初冬の気配。
先週から締切で靴の履けない日が続く。逃避先は仕事机の横の本棚の一列。
すぐに手が届くその一列には歌集が並んでいる。
好きな歌人の一人に葛原妙子さんがいる。
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水
たれかいま眸(ひとみ)を洗える 夜の更に をとめごの黒き眸流れたり
中井英夫さんが『球体の幻視者』と呼んだ歌人だ。
しかし、翻って「幻視」とは一体、何だろう。
前掲二首で葛原さんは『ゆふぐれの水』を詠み、『をとめごの黒き眸』をうたう。いずれも特異な素材が詠まれているわけではない。にもかかわらず、通常『ゆふぐれの水』や『をとめごの黒き眸』という言葉がまとうであろう温もりや情緒はそこにない。読後に残るのは、むしろ硬質でひんやりとした感触だ。
葛原さんは決して「もの」と心を通わせない。たとえば「他界」に立ち、そこから「ゆふぐれの水」を眺め、たとえば「たれかいま眸を洗」う姿を遠く離れたどこかの場所で直観する。葛原さんと「もの」の間に距離がある。目に見えないヴェールのような、けれども決定的な隔たりが歌人と「もの」の間にある。
歌人はまるで死者が生の世界を眺めるようなまなざし、もはや心を持たぬ者の透明なまなざしで「もの」を見つめ、そのまなざしをくぐって純化された「もの」が歌の中に立ち現れる。そこでは「生」もまた不純物のひとつに過ぎないかのようだ。
「幻視」とは、在り得ない幻を見ることなどではなく、むしろありとあるこの身の桎梏を離れてものを見つめるまなざしのありようではないか。葛原さんの歌にふれると、そう思えてくる。