素晴らしい映画を観ると、生きていてよかったと思う。
『マン・オン・ワイヤー』は自分にとって、そう思わせてくれる映画の一本だ。
1974年8月7日。当時、世界一高い建物はマンハッタンの世界貿易センタービル・ツインタワーだった。地上から遥かに見上げる441mの二つの高層ビル。向こうには薄明の空だけが広がっている。この映画は、その夏の朝、二つのビルの間に鋼鉄のワイヤーを張り、世界で最も天に近い場所で綱渡りをした男のドキュメンタリーだ。
男は、若き大道芸人フィリップ・プティ。映画は、青年フィリップの型破りのストーリーとして始まり、やがて彼と、彼の恋人や友人達のみずみずしい群像劇となって進んでいく。現在の彼らが当時を振り返って語り、残された記録映像が過去をよみがえらせる。四十年前の16mmフィルムの中の彼らは、フランスの片田舎の緑美しい野原に綱渡りのワイヤーを張り、誰もが海の向こうの摩天楼を夢見ている。けれども、生き生きとした語りと息を呑むような見事な構成で、あっという間に1974年8月7日に連れて行かれた時、観る者の前には、この世のものとは思えない高さの綱の上を一人の青年が歩いている姿がある。そして、初めてわかる。これは、一人のフィリップの物語でも、若者達の群像劇でもなく、それが確かに起こったあの時――さまざまな人々の思いと行為が交錯し、紛れもない事実としてそれが起こった「あの時」の映画なのだ。しかも映画は、思いもよらないエンディングへと観る者を連れ去り、独特の苦さを残しながら幕を閉じる。
95分の短いフィルムの中に、人の憧れも、狂気も、輝かしさも、愚かさも、純粋さも、弱さも、哀しみもすべてがある。劇的で、いつまでも深い余韻を残すドキュメンタリーの傑作だ。
07年制作、ジェームズ・マーシュ監督。(2009年日本公開)
WOWOWで3月23日午前5:55より放映。
DVDも発売中。
興味のある方は是非是非、一見を。