ロイ・ヴィカーズ 『迷宮課事件簿』(1) | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

あっという間に三が日が終わってしまいました。

新年のプレゼント、ありがとうございます。

そしてゲストブックにメッセージ、ありがとうございます。非公開にしてますが、全部、読んでおります。本年もよろしくおつきあいくださいませ。


さて、新年、一本目のミステリは、ハヤカワミステリ文庫に収められているヴィカーズの『迷宮課事件簿』。これは、かねてより一番のお気に入りミステリ短編集のひとつだ。刊行は1946年だが、舞台は19世紀後半のエドワード7世治世下のイギリス。当時、スコットランドヤードに創設されていた《迷宮課》によって解決された事件の事件簿という体裁の本だ。

脚本家・太田愛のブログ-迷宮課シリーズ
まず、《迷宮課》の設定がユニークだ。この本の《迷宮課》は迷宮入りになった難事件を解決するという特殊な部署ではない。ほかの課で投げ出された意味不明の証拠、見当違いの情報、非常識な意見などが次々に持ち込まれるという部署で、常識的に考えれば「この課にあるのは誤報の山」ということになる。たとえば、巻頭の名編『ゴムのラッパ』では、ある窃盗犯が盗んだワニ皮の鞄の中から出てきた77個の赤ん坊用の玩具のゴムのラッパが、持ち主不明のままに迷宮課に回されてくる。窃盗犯はすでに捕まっている。事件はもはや解決ずみだ。ただ、ゴムのラッパだけが意味不明にあまってしまっている。なぜだ……?

《迷宮課》の本領は、こんなロクでもない証拠を偶然と当て推量で事件解決に結びつけるところにある。実際、この77個のゴムのラッパは、ひょんなことから新婚の花嫁エセル・フェアブラスの無惨な撲殺事件と結びつく。その偶然の顛末の面白さが《迷宮課》シリーズの醍醐味だ。


このシリーズは刑事コロンボや古畑任三郎と同じく犯人の姿が最初から明かされ、物語が犯人の側から描かれていく倒叙ものだ。通常のミステリ以上に犯人の姿が克明に描かれる。コロンボや古畑では特別な知性や権力を有した犯人が登場し、探偵役と知的対決をくりひろげ、やがて探偵の慧眼によって思いがけない証拠で完全犯罪が崩され、事件は幕を閉じる。
だが、この『迷宮課事件簿』はまったく趣が異なる。まるで新聞か雑誌に連載されたノンフィクションのように簡潔な文体で、淡々と犯人の姿と犯罪が描かれていく。《迷宮課》の活動はあまり描かれず、レイスン警部という主任も一応いるにはいるのだがほぼ登場しない。『ゴムのラッパ』では《迷宮課》が登場するのは最後の1ページ、レイスン警部にいたっては最後の4行だけだ。あくまで、小説の焦点は犯人像にあり、犯罪そのもののいきさつがミステリの核心だ。


市川崑監督の金田一耕助シリーズには「恐ろしい偶然」が事件を引き起こしたというフレーズが何度か登場するが、この『迷宮課事件簿』の魅力も「偶然」にある。ただ、このシリーズにあるのは「恐ろしい偶然」ではない。だから、「劇的」な犯罪は起こらない。犯人と探偵の知的な対決もない。ありふれた偶然が犯人の心理と状況に作用して犯罪を構成し、そして同じように偶然の連鎖が《迷宮課》による事件の解決をもたらす。たとえば、ゴムのラッパのようにありふれたものが、ひとつの犯罪をめぐって偶然に人々に作用し、犯人は破滅し、事件は終息する。そのありふれた偶然のリアリティが、普通の人間が普通に壊れていき、犯罪にいたるまでの物語をサスペンスあふれる劇的な平凡として描き出す。それがこの《迷宮課》シリーズの他にはない不思議な魅力だと思う。


残念なことに、アマゾンでも古書しか手に入らないのが現状のようですが、興味のある方はぜひ。シリーズが三冊出ていますが、お薦めはやはり(1)です。傑作ぞろいです。