追悼 原田昌樹監督。 | 脚本家/小説家・太田愛のブログ


2008年2月28日、原田昌樹監督が亡くなられた。
五十二歳の若さだった。


監督が亡くなられて一週間。
まだ、気持ちの整理がつかないけれど、

監督のことを書いてみようと思う。


監督に初めてお目にかかったのは

97年、ウルトラマンダイナのシリーズだった。
以来十年あまり、

監督は良き先輩として、良き飲み友達として、
不肖のライターと気さくにつき合って下さった。


監督には本当にたくさんのことを教えて頂いた。
映像界に入ったばかりでまだ西も東もわからなかった私を、
監督はしばしば撮影の現場に呼んで下さった。
差し入れ袋を両手に提げてオズオズとロケ現場に行くと、
「ああ、来ましたね」といつもの笑顔で迎えて下さった。


そこでは真夏の炎天下も、極寒の日も、

びっしりと書き込みのされたシナリオを手に

多くのスタッフ、キャストの方たちが、

文字で書かれた『お話』を三次元の『世界』に立ち上げるべく

たいへんな情熱と労力を傾けていた。


脚本を書く責任を痛感した。
ト書き一行、ゆめ、気を抜いたものなど書けないぞと思った。
監督は多くは語らなかったけれど、

脚本はスタッフが情熱を傾けるに足るものでなければならない

と、教えてくださった。


監督のおかげで出会えた現場の仲間は、

自分のかけがえのない友人になってくれた。



2004年、『ウルトラQ dark fantasy』の「光る舟」が

私にとっては原田組での最後の仕事になった。

なかなか仕事でご一緒する機会がなくなってからも、

監督はよく呑みに誘ってくださった。


集まるのはたいてい監督の行きつけのバー『J**』。
あんなのやりたいね、こんなのやりたいね、と
これから作りたい作品や、好きな映画の話ばかりしていた。


監督は滅多に酔うことがなく、
「邦画には呑み屋から生まれた映画がいくつもありますからね」と、
楽しそうにいつものフォアローゼズを飲んでおられた。


        ◇


2005年の8月、監督から『入院しています』というメールを頂いた。
『病名は癌です。あ、驚かない、驚かない(無理か……)』
という飄々とした書き出しで、

7月の撮影中に癌が見つかってから

8月3日に手術するまでの経緯が細かく記されていた。


慈恵医大まですっ飛んでお見舞いに行った。
監督はこちらを見るなり、満面の笑顔にピースサインで

「日に焼けた癌患者です」とおっしゃった。

手術の直前まで撮影されていたので、

本当に見事な珈琲色に日焼けされていた。

直腸の癌を摘出し、少し痩せておられたが

術後とは思えないほどお元気そうたっだ。

「再発さえしなければ、もう大丈夫」とのことで、

退院されるとすぐに映画「旅の贈り物」のロケハンのため、

炎天の西日本に発たれた。


その後、「旅の贈り物」を撮り終えたあとも

快調にお仕事を続けられていて、
もうすっかり大丈夫なのだと安心していた。

昨年3月の監督のバースデイパーティーの時も、
その後、うちの近所で焼肉した時も、
監督の大の仲良し・石井てるよし監督の仕切りで

小さな忘年会をした時も、
監督は気持ちよさそうに呑んでおられたから。


一昨年の暮れに癌が再発し、余命一年と言われていたことを、
監督は亡くなる直前まで仕事仲間にはおっしゃらなかった。


昨年の暮れ、その一年が来て主治医の先生に相談したところ、
まだ進行が遅いので大丈夫だと言われ、
12月15日の映画『審理』クランクインを決めたのだと
後になってうかがった。
本当に最後の最後まで、監督は現場に立っておられたのだ。


        ◇


2月27日。亡くなる前日、

病院から二泊の外泊許可を貰っていた監督は、
仲間の顔を見に狛江のレストランにいらした。
作品づくりに打ち込む日々の中で、
転移した肺に穴が開き、酸素チューブを入れておられた。
監督はいつものデジカメを持参されていて、みんなで交代で写真を撮った。


翌28日早朝、自宅から病院に向かう救急車に乗る際も、
監督は自分で、出て行く自分の部屋を、カメラに撮ったという。
その数時間後、監督は亡くなられた。


お通夜にもお葬式にも、

ご家族の方が驚くほど大勢の人々がいらしていた。

お葬式では原田監督がメイン監督を務められたリュウケンドーの主役
山口翔悟さんが懸命に悲しみを堪えて弔辞を述べられた。
遠く高知からいらして下さった原田作品のファンの方もおられた。


大勢の参列者を見て、監督の叔父様が、

「初めて昌樹は仕事をしていたんだなぁと思いました」

と、泣き笑いされていた。そして、

「インターネットに原田監督をしのぶ言葉が多く寄せられていたのを

読んで、本当に嬉しかった」とおっしゃっていた。


        ◇


原田監督はいろんな話をして下さったが、

いま思い出すのは何でもないエピソードだ。


高校生の頃、すでに映画少年だった監督は、

松本の映画館の回数券を持っていた。その回数券を手に、

しばしば授業をさぼって映画館に入り浸っていたという。


ある日、その大事な回数券をどこかに落としてしまった。
途方にくれていると、いきなり高校の校内放送で

『原田昌樹君、原田昌樹君、職員室へ』と呼び出しが流れた。

おっかなびっくり行ってみると先生が

『これ、おまえのだろ』と落とした回数券を渡してくれたという。

『こんなの持ってるの、おまえくらいしかいないからな』と。


「回数券を受け取りながらね、なんかちょっと嬉しかったよ」

と、監督はいつものようにフォアローゼスを飲みながらおっしゃっていた。


長野から『監督』を目指して上京されるほんの少し前のエピソード。
原田監督の伏し目がちの照れ笑いとともに、鮮やかに心に残っている。


その時に手渡された回数券は、

生涯、監督の胸にしまわれていたのだと思う。


原田監督は、

少年の日の映像に対する瑞々しい愛情を

最後まで持ち続けた人だった。


監督、本当にありがとうございました。