今回の地震を「天罰だ」と言う石原慎太郎へ
ついに大地震が来てしまった。被災者の状況、また犠牲者の無念を思うと、何もことばにすることができない。術後の身で、できることは募金と節電くらいしかないのかもしれないが、他にも少しでも支援のためにできることを考え、行動していきたい。
このような時に人の批判はしたくなかったが、この発言だけは看過できなかった。石原慎太郎である。私は彼については、知事として適度なバランス感覚と先見性を持つという功の部分と、新銀行問題やかつて新井将敬を自殺にまで追い込むきっかけとなった在日への極端な差別感情といった罪の部分の両方があると考えていた。決して高評価できる政治家ではないが、消去法で知事選へも投票しようと思っていた。
しかし、今回の発言は論外である。
「津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」
天罰とは「悪事に対する自然の報い」(デジタル大辞泉より)を言う。石原は、今回の地震、津波による被害を、「日本に対する天罰」としている。
しかし、被災された方々の多くは、ささやかに日々を暮らしてきたお年寄りであり、中には幼い子、赤ん坊もいた。幼い子の母もいた。石原は彼らが日本の因業を背負って犠牲になったと言いたいらしい。それは常に高いところから物を言う石原にとって、最近の彼の主張である「我欲」にかられた日本人批判には都合のいい解釈だったようだ。
みなさんお気づきのように、天罰なるものは存在しない。日々善行を積み重ねた老人に対しても、子どもの顔を見るのが楽しみな親に対しても、幼きあどけない子に対しても災害は降りかかる。そこに「彼は善人だから」とか「この子はまだ幼いから」などという価値判断が働く余地は全く、ない。国や文明に対しても同様である。
もし神がいるとして、その神に日々祈ったとしても、あるいは可能な限り万全な対策をとったとしても、このような規模の災害までは避けられないのである。神も自然も、人や文明の善悪に左右されるような卑小なものではない。それはただ絶対的な存在であり、起こることはただ必然である。
人にできることは、絶対的な自然に対し、日々小さな石を積み上げることでしかない。今回の復興も、生き残った我々各人が石を積み上げていくしかない。それは、石原がいう「津波をうまく利用して」などという小賢しいことではない。このような災害を「天罰」なる言葉で卑小化し、犠牲者まで貶める石原を私は許さない。