ナメル#20 「七つの大罪/等活地獄」 | ナメル読書

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『七つの大罪/等活地獄』(中上健次「奇蹟」河出文庫所収)

 作品はじめ、呪われた仲本の血を継ぐタイチが、路地の誕生と死とを見守るオリュウノオバと連如の元を訪れる。やくざ者にも関わらず「おとろし」と取り乱すタイチに事情を聞くと、自分の女が、産んだ奇形の子を殺したというのである。

 私はこの「おとろし」を、子の異形に対する感情か、その子を殺した自分の女に対する感情であるかと思ったのだが、後の頁を見ると、それが裏切られることとなった。おそらく、他の多くの読者もこの裏切りを経験するのではないだろうか。そして、このおよそ尋常ではない「おとろし」があるからこそ、本作は、己の血というなぞりやすい題材を、必然としてまっさらの上に書き付けることができたのではないのだろうか。

 本作を含む連作「奇蹟」は、タイチを中心とした仲本の血を継ぐ若い衆たちを回想するという形式をとっている。しかし、その作品内で明確に描かれるように、回想といってもある時点から一方的に過去を振り返るわけではない。振り返っていた者が、タイチたちに現前したり、あるいは自らとタイチたちとの境界が不明瞭になったりすることで、つまり超越的な立場がなくなることで、路地の者たち同士の関係によって生じる時間以外の時間はなくなってしまう。あるいはこれを、歴史の喪失と呼んでもいいのかもしれない。私はこの歴史の喪失をさらに輪廻と呼び変えてもよいかどうかは知れないが、少なくともこの輪廻は外から眺められるものではなく、体験され続けられているものであるだろう。

 ここにおいて血は、単に己に流れているという事実のみを指すわけではない。それ以上に、各世代の各々相互の時間的な関係が無効になった世界において、路地とともに、血が関係を作り出している。正確には、血を軸とした各々の関係が、世代間といったような歴史のように見えるだけなのだ。もっと言えば、路地と血が、歴史の喪失を作り出しているとも言えるだろう。

 だから、通常己の血を題材とした諸作品において登場人物が拘泥するような、血による因果律がタイチを恐れさせることはない。血は単に関係を示すだけであって、ここにタイチが父で、殺されたのが子、といった因果の流れといったものはない。己の血が、子の奇形を、あるいは、母の子殺しを引き起こしたという認識は、身振り素振り口振りではあるかもしれないが、この作品の限界上、タイチには持ち得ないものである。

 「俺ら、本当はあんなにおとろし姿かいね?」

 タイチはこう述べる。

 それは疑問の形をしているが明白なことであり、異形の子が産まれる前からすでに了解されたことなのである。