「中2男子と第6感」(福満しげゆき、ヤンマがKCスペシャル 講談社)
こんにちは てらこやです
よく巷では「共感できる」作品がよい作品であると言われる。読み手に「わかる、わかる」と言わせる作品がよい作品であると言われる。これが僕にはなかなか分からない。なぜなら僕は普段「共感」でもってマンガや小説といった作品を読むことがないからだ。ある作品の登場人物に自己を投影して、その物語内人物に起こった出来事と自己のそれとを照らし合わせ、その符合を楽しむといった読み方は通常しない。読解するのは紙の上に書き付けられたパターンであって、それが既存の膨大なパターンの集積からいくらはみ出しているかを重視しているに過ぎない。これは別に通ぶっているとかではなく、そうした読み方が私にとっては通常運転、もっと言ってしまえばそうした読み方しか通常できない欠陥読書を普段しているわけだ。
なのでそんな僕にとって共感的読書とは能動的に求めるものではなく、あるとすれば強制的に迫ってくるものであり、希有な体験と言えるのである。
しかるに福光しげゆき「中2の男子と第6感」を読んで、僕は久しぶりに「ああ、わかる、わかる」という読書体験をした。それがどんなものであったかを語る前に、本書の粗筋を紹介しておこう。
学校でいじめに遭い登校拒否・半ひきこもり状態にある中2の「僕」の前に、年上(高1)の、グラマラスでちょいちょいエロい、お姉さん的存在(「師匠」)が現れる。話の中でもしばしば議論になるが、「師匠」は「僕」にしか見えないシックス・センス的存在であり、それが単に幻影なのか、霊的な何かなのか、あるいはさらに別の何かなのかははっきりとしない(第1巻の終盤でかなり核心に迫りつつあるがここでは書かない)。そんな「師匠」に導かれ、「僕」は学校復帰に向けた特訓をし、策を練る。
と、まあこういったことがさほど重いムードでなく、福光作品独特の、自己の(けっこう重い)問題を主体として引き受けず、客体化によってはぐらかす態度によって書かれている。
ひとによっては「心の中のお友達?」といぶかしる者もいるかもしれないが、そうしたひとはかつていたはずの「心の中のお友達」を忘れているだけなのである。僕はこの作品によってある「お友達」を思い出した、いや、「お友達」というより「導き手」を思い出した。
小学校高学年の頃である。性の芽生えを迎える手前に「彼女」は現れた。年の頃は20代前半くらい、小学生からしたらお姉さんだ。「彼女」は夜毎現れて僕に性に関する様々なことを実演して教えてくれた。様々な前戯の技法や倒錯的性行為の技法を教えてくれたが、不思議と通常とされるセックス(挿入行為)は含まれていなかった。僕はそれを興奮まであとひと触れといった心境で見やっていて、後になってそうした情報を仕入れる術を身につけた年頃になって、「彼女」の実演してくれたことが世に実際に存在することを再確認した次第である。
このように書くとひとはしたり顔で笑って、それは幼い君が知らぬ間に見ていた視覚・聴覚情報(昔テレビはずっと性的だった)、あるいは両親のそれを見ていたのさ、などと言うかもしれないし、あるいは君が性的な情報に接した出来事から事後的に、「彼女」という存在=記憶を生み出したに過ぎないのさ、などと宣うかもしれない。僕だって別にそれは否定しない。きっと他人が言えば僕はそう読解=分析してしまうに違いないからだ。
けれども重要なのは主観的には確かに「彼女」は存在したということであり、その「彼女」との記憶を呼び起こしてくれたのが本書だということであり、それによって僕は懐かしさから、滅多にないことだが、こころ動かされる読書体験をしているということだ。
僕にはこの本が多くのひとにとって共感を誘う類のものであるのかを推測する術はない。けれども、僕にとってはそれを誘うものであり、個人的な懐かしさを呼ぶ本なのである。
※福満しげゆき作品の他の感想
中2の男子と第6感(1) (ヤンマガKCスペシャル) | |
福満 しげゆき 講談社 2015-04-06 売り上げランキング : 147 Amazonで詳しく見る by G-Tools |