第120どんとこい「枯木灘」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「枯木灘」(中上健次、河出文庫)


こんにちは てらこやです


「枯木灘」を読み、改めて小説の要は細部に宿ることを確認した次第である。


よく指摘されるように、「枯木灘」は過去が現在に再現され、それが未来にも三度再現されるであろうという反復が描かれる(河出文庫版、柄谷行人の解説ではこれを「関係の関係」の反復とした)。例えば主人公秋幸は実父である浜村龍造を蠅の糞の王と呼び、その関係を否定しようとしているにも関わらず、次のようなほんの些細なシーンで、龍造を自らの元へと引き寄せてしまっている。強調するが、それは実に些細なシーンである。


「秋幸は奇妙な気がした。フサも美恵も、さっきと口調がまるっきり違った。さっきは重っ苦しかった。秋幸もそうだった。繁蔵とは義理の父子なのに、繁蔵の顔を見ていると、本当の親子のような気がする。竹原という秋幸のみょう字が、生まれる前からついていた気がした。その男のことも、さと子のことも、頭の中で考えた架空の秋幸の物語である気がした。その男が父親であること、確かにそれは秋幸の物語である気がした。その男が父親であること、確かにそれは秋幸には架空の物語同然だった」


ここは一見実父=龍造を否定しているかのように見える。表層的にはそうであろうし、細部について鈍感な書き手であるなら、その表層に引っ張られより自然な表現に、すなわち「その男」ではなく「あの男」と書くはずである。しかし、それでは秋幸の反復が、表層では実父を否定しながら、深部では実父をなぞっているということが台無しになってしまう。「あの」よりも距離の近い「その」という代名詞をこのような些細なシーンでも選ばなければ、秋幸の二重性は表現できないのだ。


人によってはこの作品をとりたてて描く必要もないシーンや逸話の多い、冗長なものだと思うかもしれない。しかし不遜を承知で言えば、そういう人はこうした些細な表現が見えず、忍び寄る音が聴こえていないだけなのである。


枯木灘 (河出文庫)
枯木灘 (河出文庫) 中上 健次

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