第六十四どんとこい「妻の超然」 | ナメル読書

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「妻の超然」(絲山秋子、新潮文庫)


こんにちは てらこやです


絲山秋子「妻の超然」を読みました。この作品集には3つの短編──『妻の超然』、『下戸の超然』、『作家の超然』が収められています。


各作品はそれぞれ次のような話です。


『妻の超然』は三人称の小説。48歳になる理津子は、年下夫の浮気を睥睨しながらも放置しています。この放置を理律子は「超然」と名付け、親友ののーちゃんや舞浜先生の生き方に触れながら、自分の生き方を相対化しようとします。しかし、相対化の試みは崩れ、最後に「超然」とは「怠慢」だったのではなかったのかと思う……という話です。


『下戸の超然』は一人称の小説。二十代半ばの広生はつくば市の会社に勤めるエンジニア。下戸に酒を強いるように、様々なことを決して悪意ではなく強いる他人に辟易しながらも、一種醒めた態度でやりすごしています。しかし、酒を勧め、飛行機を勧め、結婚を勧め、NPO活動を勧める彼女との関係ではとうとうやりすごすことが叶わず、最後には「超然としてればいい」と別れを告げられます。この時、「超然」とは単に変わる努力を怠ること=「怠慢」ではなかったのかと思う……という話です。


『作家の超然』は二人称の小説。作中「おまえ」と呼びかけられる作家倉渕は、頸部にできた腫瘍を取り除く手術を受けることになります。作家であることに加えて、病を得たことでより世間とは隔たることになった倉渕は、同じく精神の病であった兄と、それに反発する父のことを振り返り、その関係を書き手である自分と読み手を含む社会とに延長します。しかし兄的な書き手の仮構の優越からも醒め、かといって父的な社会に迎合することのできない倉渕は、「超然とはいうのは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ」と、もはや受け手を失った文学が滅びていくのを受け入れる……という話です。


絲山秋子は「ばかもの」において、哀れみの関係を断ち切りました。哀れ「だから」好き、を断ち切り、哀れ「にもかかわらず」好き、へと関係の倒錯をもう一度転倒させたのです。哀れみへの同調的な関係に対して批判的な作品でした。


この批判は今作でも受け継がれます。理律子は浮気夫の甘えを受け入れて嬉しくなった後に、「ああ、おそろしい」と呟きますし、倉渕は兄との関係を次のように振り返ります。


「自分だけが必要とされている、そう思った。それを世間では『依存』と言うのだと知り、自分の発言は酔っているようなものだったと認めるのには随分時間がかかった」


この同調に代わって取り上げられるのが、本作の超然です。自分は自分、他人は他人という個人主義的なこの態度は、はじめの2作によって、実は関係づくりの忌避=怠慢ではないかと疑われます。


超然という態度への疑義が出された後に、『作家の超然』が書かれていることには、注意が必要でしょう。倉渕は超然とすべきだと言いますが、作中において倉渕もまた(「あなた」でも「君」でもなく)「おまえ」という最も突き放した言い方で批判の対象になっているからです。


『作家の超然』では、超然の対象がふたつに分かれます。ひとつは書き手に対する社会(読み手)で、もうひとつは文学です。


読み手との関係も忌避し、滅びゆく文学をただ受け入れるという倉渕を、「おまえ」と語りかける書き手は、最後に次のように描写します。


「すべてが滅んだ後、消えていった音のまわりに世にも美しい夕映えが現れるのを、おまえは待っている。ただ待っている」


これを作家絲山の文学的態度だと受け取ることもあるいは可能かとは思いますが、てらこやはその逆、超然を是とすることへの自己反問だと受け取りました。


そして、同調も超然も批判された後のとまどいは、『下戸の超然』で次のように書かれるのです。


「その背中に、ちょっと待てよ、と僕は言えない。/変わるよ、改めるよ、なんでも努力してみるよ、と僕は言えない」


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