第四十三どんとこい 「ばかもの」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「ばかもの」(絲山秋子、新潮文庫)

こんにちは てらこやです


鹿島田真希「冥土めぐり」、川上未映子「ヘヴン」、綿谷りさ「勝手にふるえてろ」と立て続けに読み、感想を書いてきました。これらを「現代」・「女性」・「作家」とくくり、共通項を求めようとすることには安直さと躊躇いと恥ずかしさとを感じないでもありませんが、今回は便宜的なカテゴライズのひとつとして許してください。


これら作品に共通しているのは、女性登場人物による男性への「哀れみ」という心性が色濃くでてきているということです。ただしそれぞれの作品内で、この心性がどのような帰結を導くのかは異なります。


「ヘヴン」のコジマは、いじめ=暴力を受ける「僕」を哀れむと同時に、自分自身が自作によって「哀れみ」の存在となることで、同じ属性の者同士として関係を結ぼうとしました。


「勝手にふるえてろ」の良香は、学生の頃ペット的扱いを受けていた「イチ」を哀れみ、それを一方的な恋愛へと転化していました。


「冥土めぐり」の奈津子は、脳の発作で肢体の不自由となった夫、太一の、それでもなお無邪気であり続ける姿に哀れみを感じますが、そう感じさせる太一に反発と憧れを抱いており、こころが動揺しました。


「ヘヴン」と「勝手にふるえてろ」の場合は、哀れみがさきにあって、「だから」相手と関係を結ぶことになります。また「冥土めぐり」も哀れみの対象となった相手と、いかに関係を改めて築くのかが問題となります。


これら数作をみただけで判断することは危険ですが、女性にとって哀れさに対する感度が非常にあがっているのではないか、それが現代文学を書き上げるひとつ動因となっているのではないかと仮説も立てたくなります。この哀れさに対する敏感は、今までにあげた3作に共通するように、相手の哀れさに対する敏感さであると同時に、自己の哀れさに対する敏感さでもあります。一見相手の哀れみに触れることで、翻って自己の哀れみを表明しているようにも思えますが、実際は別のように思えます。つまり、自分自身が哀れであることを確認するために、あえて哀れな人間に近づく、あるいはひとを哀れだと思いこませているようにも思えるのです。


自分が哀れであることを確認したがる女性、おそらく現実にこうした心性の女性はいるでしょうが、それが一体どれだけのポピュラリティーを有しているのかはわかりません。しかし、「現代」を代表する「女性」「作家」の中に哀れみを求める、もっと言えば可哀想な自分、または可哀そうな相手を求める心性が共通して描かれていることは興味深いことです。


だが、そうした心性の持ち主ばかりの小説を続けて読むと、いささか食傷気味になることも確かで、哀れみを求めて自分も相手も落ちていこうとする現実逃避型の女性以外はないものかと思ってしまいます。


そこで読んだのが絲山秋子「ばかもの」です。これは額子とヒデとの出会いと別れ、再会を扱った作品ですが、珍しいのは、この作品がヒデの視点を中心とした、限りなく一人称に近い三人称で書かれているということです。


ろくに大学にも行っていないヒデは、バイト先で知り合った27歳の額子と肉体関係をもち、つき合い始める。その後二年が経った頃、ヒデは外界の木に縛り付けられて射精に至らないフェラチオを受けた後に、唐突に「結婚するんだ、私」と告げられ、そのまま額子に去られてしまう。


その後なんとか大学を卒業したヒデは、家電量販店に勤めるようになる。別の女性とも同棲をはじめ、楽しい生活を送っていたヒデであったが、いつしか彼は酒に溺れるようになってしまう。アルコール依存症となったヒデは、その女性をひどく傷つけて別れたあげく、実家にも迷惑をかけ、仕事も辞めてしまう。酒に溺れるほか逃げ場のない生活。額子の母のやっている居酒屋で一時更正を誓うが、続くことはない。


ある日、飲酒運転の末にヒデは事故を起こす。人を巻き込むことはなかったもののそれは偶然に過ぎず、人殺しになりかねなかったヒデは、アルコール依存を治療するために入院する。


退院後、ヒデは額子の母から、額子が事故で左腕を失ったことを知る。しばらくしてヒデは、額子のいる片平へ向かうことを決意する……という話です。


「愛想も表情も読みづらく」、「魅力的だけれども、同時に大変不親切な女」である額子は、語りの視点がヒデであるためにより一層わかりづらくなっています。しかし、ろくに大学もいっていないヒデを捨て、まっとうな社会人の男を選んだという行為には、彼女が「哀れな」男を選ぶことによって、自分自身の「哀れさ」に溺れる心性の持ち主では決してないことが現れています。そもそも額子はヒデを哀れとは思っていないでしょう。単にヒデの未熟さを捨てたのです。


「ヘヴン」のコジマや、「勝手にふるえてろ」の良香には、相手の男が哀れさから脱しよう、あるいは成熟しようとするとそれを阻止せんとする傾向があります。それに対し額子は、未熟なくせに「額子って、終わった後の方がかわいいよな」などというヒデを、「ばかもの」と突き放します。この「ばかもの」は、未熟者が何脳天気なこと言ってんだ、という意味だとてらこやは読みました。はやく未熟に気づけ「ばかもの」という呆れ半分、激励半分といったところでしょうか。


ヒデはアルコール依存で社会的な脱落者、額子は左腕を失っている。ある人から言わせれば、「哀れな」人物でしょう。ヒデも額子もお互いに「哀れ」だなあと思っているかもしれません。しかし、作品の終盤に見られるのは、哀れ「だから」好きだ、ではなく、哀れ「にもかかわらず」好きだ、ということであり、この気持ちに素直に従うべきなのかどうかという互いの躊躇いが描かれます。もちろん、ここで躊躇うのは、ふたりが大人だからであり、哀れさの要因が現実生活に及ぼす負担を十分に知っているからです。


最後にもう一度出てくる「ばかもの」という台詞。躊躇いを越えてやってきた相手を迎えるために、これ以上ない見事な台詞だと思いました。


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