第二十六どんとこい 「汚辱の世界史」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「汚辱の世界史」(J.L.ボルヘス、中村健二訳、岩波文庫)


こんにちは てらこやです。


今月は岩波文庫から「汚辱の世界史」が出たのでさっそく読みました。この本は3つのパートに分かれていて、最初は表題の「汚辱の世界史」と名付けられた、歴史に名を残したアンチ・ヒーローを題材にした諸作品。ふたつ目は、自前=オリジナルの短編「薔薇色の街角の男」。最後は各地の魔術的伝え話から材をとった諸作品が収められています。


史実を題材とした作品の場合、読者は当然現在と過去とを対比し、魔術的伝え話を題材とした作品の場合は現実と非現実とを対比させます。この時、現在または現実と、過去または非現実との異なりが目を引くのは当然のことでしょう。


例えば19世紀中頃にアメリカ西部で活躍したビリー・ザ・キッド(ビル・ハリガン)の最後は次のように書かれます。


「彼はひげを剃られ間にあわせの服を着せられて、フォート・サムナーで一番立派な店の飾り窓にさらしものになり、人々の畏怖と嘲笑の的になった。/何マイルも離れた遠方から、馬や馬車で見物人がやってきた。三日目には死体に化粧がほどこされた。四日目、歓呼のどよめく中を彼は葬り去られた」


現在に生きる(そして少なくとも近代的な世界に住む)私たちは、死体が晒されるという特異な事態に目を奪われます。


現在や現実といった今ここにいる場所との異なりを強調すればするほど私たちの興味も引くでしょうし、ボルヘスの場合は様々な文化圏の逸話をもってくるものですから(ちなみに「汚辱の世界史」では、忠臣蔵を題材に、ひとが忠義のためにばっさばっさと腹を切る文化が紹介されています)、自文化と異文化との隔たりもまた、私たちにページをめくらせる動力となるのです。


しかし、もしもこれら作品が、現在・現実・自文化に対する異なりだけを強調するだけのものであるなら、ボルヘスの作品は到底残ってはいなかったでしょうね。この本に収められた作品の多くはブエノスアイレスの夕刊誌の付録として掲載されたものだそうですが、おそらく他にもあったであろう読み物と同様、たとえその場で興味は引いたとしても、それは単に知識の媒介として、そのもの自体は忘れ去られてしまったに違いありません。


ではなぜボルヘスの作品は現在までに残っているのか。古典として(岩波文庫に入ったくらいだから古典に違いあるまい)、文学作品として残ったのか。


ひとつ考えられるのは、ボルヘスが異世界を、今ここにある世界から「描かれる」、つまり従属的な世界として取り扱っているのではなく、自立した世界として扱っていることにあるのではないかということです。つまり、異世界がひとつの独立した世界として、私たちが今ここに住む世界とは違っているかどうかなどとは関係なく、とにかく起こった(あるいは起こっている)のだという生々しさが、ボルヘスの記述には(ここに至ってはすでに「報告」といった方がいいかもしれませんが)含まれるのです。例えば、次のような箇所。


「夜が白みそめるころ、戦いはぷっつりと止んだ。まるで何か猥褻なことをしていたみたいに、あるいは彼らが優麗でもあったように。高架鉄道の大きなアーチの下には、七人の重傷者、四人の死体、それに一羽の鳩の死骸が残されていた」


銃撃戦の後に一羽の鳩の死骸が残されていたという、どうでもよいが、それでいて正確な報告が、この作品の自立性を示しているのです。


もちろん、これら作品は、今ここに生きるボルヘスによって「描かれた」ものです。ボルヘスを過去や魔術的世界へ身をおくことのできる幻視者なのだというフィクションを受け入れるのでない限り、やはり私たちはボルヘスの技巧を賞賛するべきでしょう。そこに鳩の死骸という、文学的に生々しい報告を、あたかも見てきたかのように書けてしまうからこそ、ボルヘスはすでに歴史に名を残す文学者なのだと思います。

汚辱の世界史 (岩波文庫)
汚辱の世界史 (岩波文庫) J.L.ボルヘス 中村 健二

岩波書店 2012-04-18
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