うつと読書 第24回 「ゼーロン・淡雪」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「ゼーロン・淡雪」(牧野信一、岩波文庫)

こんにちは てらこやです。

最近保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」を読みました。

これは小説(に限らず芸術全般)を表現し(出力し)、積極的に受容(入力する)ときの困難さの感触のようなものと、それでもなお訪れる喜びとが直感的に描かれています。現代作家による小説論としては、大江健三郎「小説の方法」、高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」に並ぶものだと思います。てらこやは2度読みました。

この本の第Ⅴ章では、小説内の風景について論じられています。論旨は次の通りです(といっても、あまりに要約するのは作者の意に反することなので、ぜひ原文を読んでください)。

文体とは俗に言われるように、言葉の使い方であるとか、センテンスの長短といった表面的なものではない。保坂和志が考えるには、文体とは書き手の身体性の表れであって、それは言葉という抽象的で人工的で制約の多い舞台に、いかに個的で具体性を帯びたもの(身体性)を割り込ませるかにかかっている。そして、小説の中に身体性を割り込ませることができるのは、風景を描くときだけだ。

「同じ石を描いても、一人ひとりの画家によってまったく違うタッチのデッサンができあがるのは、そこに画家の身体が介在しているからだが、小説を書くという行為の中で本当の意味で身体を介在させることができるのは、風景だけなのだ」

風景を描くことで、書き手は身体性を表現し、読み手は風景を辿ることで、その身体性に触れる。ここに、書き手と読み手との間の回路が開かれる、とこのように保坂和志は言います。

本を読んでいて、「ああ、これは惰性で読んでいるな」と自覚する時があります。そうした時は、だいたい文字がすべるような感触があって、小説と私との間の抵抗がないような感じがします。これがおそらく保坂和志の言う、回路の開いていない状態なのでしょう。ただ筋を追っているだけで、こちら側が揺さぶられるような感覚や、侵食されるような感覚が伴わない。ただただ対岸の出来事として小説を読む時、てらこやは「時間をつぶしているだけだな」と思います。

ただ注意したいのは、こうした筋だけを追わせる小説が全部だめだとか、悪いとか言っているわけではないということです。時間つぶしや一時の気晴らしのための読書が必要な時だってあります。毎回毎回こちら側に迫ってくる読書をするというのは、それはそれで疲れるわけですから。

でも、やはり読書の醍醐味はこちら側が揺さぶられることでしょう。書き手の身体性がこちら側にせまってきてあたかもそれに操られるようなおそれ、それに抵抗することで確かめられる自分自身の身体性。こう考えると読書というのはずいぶんマゾヒスティックでかつナルシスティックな行為なのかもしれません。

というわけで、書き手の身体性がいかんなく発揮された、ユニークな風景を紹介しましょう。牧野信一「ゼーロン・淡雪」より、『天狗洞食客記』をお送りします。

「微かに鈴の音が響いていた。鈴の音は築山のスロウプを滑って藤棚の下をくぐり、池の水に反響するためか、遠ざかれば遠ざかるほど繊細な余韻が鮮明となるかのようだった。その上それは池の上で消えることなしに、堂内に呼び込まれた水に誘われて貝殻のような庵の奥へ駆け込むと、庵全体を共鳴箱と擬して、ほんとうの貝殻を耳に当てた時のような空鳴りを漂わすのであった。橋にのめり、水の上に首を伸して私は新奇な鈴の音に聞き惚れた」

どうでしょう?とても動きのある風景でしょ?音が風のように駆け巡り、増幅している勢いがこちらにも伝わってくるようです。なんだかディスニーカートゥーンに出てくる、自分でぶるぶる震えて飛び回る、ラッパつきの蓄音機を思い浮かべました。こちら側のこころを無理やりにでもにやりとさせようとせまってきます。

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