細々と続けてきて、ようやくきました第20回。いつも読んでくれている皆さん、また今回はじめてきたという方も、とにかくありがとうございます。
ただでさえ読者の少ない本連載、それだけにペタでも残してくださった日には感謝感激なのですが、最近おそろしいことに気が付きました。どうやら記念すべき第20回もお詫びから始めなければならないようです。
というのも、ペタを返す方法を間違えていたのですよ。これまでですね、ペタをもらえば必ずその方のブログをみにいって、だいたいペタを返していた、と、てらこや本人は思っていたのですが、どうやらしていなかったんです。
説明しますね。ひとつの記事の下にペタのアイコンがあるじゃないですか。てらこやはですね、それを押せばペタをしたことになると思い込んでいたのですよ。本当は、その後に出てくる画面、上部中央で「ペタする」のアイコンを押さなきゃいけなかったんですね。注意力にいちじるしい欠陥のあるてらこやは、頭のいいインコなら気が付くようなものを見逃していたわけです。どうりでペタをした人の列に自分がでてこないわけだ。
こうしてひとは老いていくのか、チチウエ、ハハウエ、カナシイヨー、と暮れゆく夕日とともにたそがれました。今までペタをしてくださった方ほんとにすみません。今後はきちんと返します。
お詫びといえば、最近のとある大臣、松本某(通称ドラゴン)の辞任会見はお粗末でしたね。あれだけ被災者の感情を逆なでする暴言を吐いておきながら、その自覚はなく、24時間メディアにぼこぼこにされてようやく半泣きで会見する。あの方は確か60歳。いやあ、さすが元祖戦後世代、元祖現代っ子だわ。他者との共感力に乏しく、自己に甘いのはなにも現・現代っ子の専売特許じゃありません。彼らだって、十分に弱っちい存在です。せいぜい彼らの無様な姿を見て、同じ轍を踏まないように気を付けましょうね。
「空想先生」に収められた短編『死んだ男』の中に次のような記述があります。それは、本来的に弱弱しい存在である人間。にもかかわらず強大な力を得てしまった人間の哀しみが描写されています。
「だが僕を恐ろしいときめたのは誰だかわからない。いつのまにかそうなった。それを僕はうまく利用しただけだ。皆がよって僕をありもしない人間にしたのだ。僕は又それをうまく利用した。そして僕と言う怪物が出来上がったのだ。君が出てくるまでは、僕は怪物で通っていた。僕に睨まれたものは死ぬ、そう言うことになり、とうとう僕が子供を殺したり、さらったりすると言う噂さえ、信用されるようになった。僕の力は、僕の知らない内に、十倍され、百倍され、千倍されて行った。僕は三十人力の持ち主として、その皆でつくり上げた椅子にどかんと座っていたのだ。僕は利用されたのか、利用したのか知らない。だが僕だって人間だ。恐怖を感じる時もあったが、得意な時も多かった。そして噂以上の実力を持った人間だと言う顔をしていたわけさ」
どうです?自己弁明にばかり長けて、自己のもった強大な力の及ぼす意味を知らない、現代的な甘っちょろい自我の権力者の心性を描いているとは思いませんか?てらこやには、とても現代的な文章に思えます。
それにしてもすごいのは、このように記述する武者小路実篤の姿勢です。武者小路実篤はそうした弱い存在である人間の姿を生々しく暴露しながら、それでもそうした存在を受け入れます。てらこやのように決して批判したり、否定したりはしません。ただ、人間はそうしたものだと、一種超越した視点から、それらを、ただ事実として記述するのです。
武者小路実篤の姿勢は次のような描写にあらわれています。
「〆切日がくるまでは、今度は少しいいものが書きたいと思う。自分ももういい齢になったのだから、人類に対する遺言のようなものも、もうそろそろかいて置いていい時分だと考える」
すごいでしょ。「人類に対する遺言」ですよ。「日本人に対する遺言」くらいなら、老齢に至った作家なら誰でも書きそうですが、人類に対する遺言とまではなかなか言えない。しかもそうした言葉を、驕りや力の昂ぶりなど一切感じさせずに、それがあたかも自然なことのように淡々と言ってのける姿に、武者小路実篤の器の大きさがうかがえます。
今回も馬鹿一や白雲、泰山など、「真理先生」にでてきたおなじみ(?)のキャラクターたちが出てきます。また、人類はもっと働かなくてもいいはずだと、それこそ空想を語って、ひとに金をたかる、それでも愛すべき人間として描かれる「空想先生」も登場します。機会があれば、お手に取って、武者小路実篤のとんでもなく超越的でかつ人間くさい世界を楽しんでみてください。
空想先生 (新潮文庫 む 1-5) | |
武者小路 実篤 新潮社 1957-11 売り上げランキング : 459976 Amazonで詳しく見る by G-Tools |