ロバート・レッドフォードとデミ・ムーアの映画で、
「幸福の条件」という映画があった。
これ、英語表記では、
「Indecent Proposal」だってことを最近知った。
「卑猥な提案」って感じだろうか?
それを「幸福の条件」と邦題をつけてしまう
日本人のセンスもすごいと思う。
ロバート・レッドフォードと
デミ・ムーアのイメージを全然損なっていない。
この映画を高3の僕は女の子を連れて
見に行ったんだった。
ふとそんなことを思い出した。
ところで、
幸福の条件ってみんな考えているんだろうか?
今、自分がしていることが、その先の幸福に
つながっているんだろうか?
幸福に導かれるために、
「現在がとてつもなく辛い」という状況は
矛盾しているんじゃないか?
ある生徒2人と最近そんな話をしている。
我慢した分、大きく返ってくるって信じているんだろうか?
大きく返ってくる前に、交通事故とかで死んだら
今やってることって意味ない?
どうしてもネガティブな方向に物事を考えてしまうのはなぜ?
ここ数年、宗教のことを独学で勉強していて、
また、歴史上の人物の本を読んだりしていると、
人生ってひょっとしていらないものじゃないかって
時々思ったりしてしまう。そんなときに、
ふと島田紳助が
「おもしろい学校なんてない。」
と述べていた書籍のことを思い出す。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
こう言って何人もの卒業生を送り出してきた。
今は、言っている本人が停滞している時期かもしれない。
そして最近、ときどき、遠いところへ旅行に行きたくなる。
いや、別に旅行じゃなくてもいい。
車(自分では『マシン』というようにしている)で
走ったことのない道を飛ばしてみたくなる。
学生時代に、峠やサーキットを走っていたころ、
車を思い通りに走らせることの楽しさを追求していた。
そのときは、車に乗せられるのではなく、
自分が車に乗っている感覚が大事だと思っていた。
サーキットや峠は、どこまで走っても
最初の場所に必ず戻ってくる。
同じところを何周も、何周も走り続ける。
コンマ1秒を削りたくて、
あと数センチイン側を攻めたくて繰り返し練習する。
どのコースも同じ車で走っている以上は
一定のタイム以上縮めることが難しくなる。
その領域に到達するために、
信じられないほどのエネルギーを注いで、
一生懸命練習する。
別にレースに限ったことじゃなく、
自分を高めるっていうのはこういうことなんだと思う。
だから、この無限ループから時々抜け出したくなる。
そんなことを思っていて、
ちょっと疲れたなって思った頃に、
同じような境遇の人がいた。
その人に対して自分なりにけっこう精一杯手を貸してあげた。
すると大きな感謝が返ってきた。
コイツのために一生懸命頑張ってよかったなって思った。
本人と同じくらい嬉しかったと思う。
そんなことが6月末から数回あってちょっと回復気味。
そして、今日の日を迎えた。
これは深夜2時の三国ヶ丘のロータリー。
マクドと居酒屋が開いていて、
タクシーのおっちゃんたちが
車のそばで盛り上がっている。
今日は弟の誕生日。
「感謝の心は幸福の呼び水、
素直な心は進歩の親。」
みんな穏やな1日を過ごせますように。









