下山事件 ~昭和史上最大のミステリー~ | フシギバナ研究会

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未解決事件・怪奇事件を中心に紹介します。
日本では未解決事件は時効成立後は捜査はしません。
しかしそのまま忘れていい事件ではないと思っています。
フシギバナ研究会では、読んでいただいた皆様と
事件について話し合っていければと思っています。

はじめまして

フシギバナ研究会です。

当ブログでは未解決事件、怪奇事件を中心に書いていきます。

 

わたしは未解決事件や怪奇事件を調べるのが日課なのですが、

だれかと意見交換したいと思いブログを立ち上げました。

私の意見も入れながら書いていきますので、

皆様の意見も教えていただけると嬉しいです。

 

 

初回は【下山事件】を書いていきます。

 

下山事件は、戦後間もない1949年に、

当時の国鉄(現在のJR)総裁だった下山定則氏が出勤途中に

送迎車から降りた後失踪し、その翌日に線路上で

轢死体(電車にひかれた状態)となって発見された事件です。

下山事件後、さらに国鉄関係の事件が続いていきました。

これだけ聞くと、殺人事件でしょと思うかもしれませんが、

この下山事件はかなり不可解な点が多いです。

 

 

事件のあった1949年の日本の状況について、

イメージを膨らませてみてください。

戦後間もない当時の日本は連合国軍(GHQ)の占領下にありました。

その影響がかなり大きく出てきている時期で、

アメリカはドッジ・ラインという政策を実施し、

日本の資本主義体制を推し進めて、自由競争が広がり、

日本が世界市場に復帰を果たした時期でした。

反面、デフレが進み、国としても公務員の人員削減を

することになりました。

そのメインターゲットが国鉄でした。

内容としては国鉄職員10万人の解雇です。

かなりのスピード実施され、方針決定の3日後には3万人が

解雇されました。

これを中心となって行ったのが、当時初代国鉄総裁に

就任した下山定則氏でした。

これだけ人員が多かったのは戦争から戻った人々の働き口

として大量に従業員を雇用していたからです。

国のために命を懸けた人々がいきなり仕事を奪われること

になれば、その反発はかなり大きいものだった思います。

 

1949年6月 人員削減の方針が決まる。

1949年7月1日 10万人解雇が決定。

1949年7月4日 3万人解雇(第一弾)。

1949年7月5日朝 下山総裁 失踪。

1949年7月6日未明 轢死体 で発見

 

※以下常体にて失礼いたします。

 

◆事件当日の流れ

1949年7月5日

▽08:20

いつも通り公用車であるビュイックに乗り、自宅を出発。

 

▽08:45

下山総裁の秘書が本社玄関前にて出迎えで待機するも現れず。

 

▽09:00

局長会議が開かれるも下山総裁は不参加。

秘書が下山総裁自宅に電話すると「いつもの時間に出ました」と言われる。

 

▽~09:30過ぎ

下山総裁は出勤の途上、運転手に日本橋の三越に寄るよう指示。

しかし開店前だったため行先を国鉄本社側にある千代田銀行

(現在の三菱UFJ銀行)に変更し、運転手は下山定則氏の

指示通りのルートを辿って三越に戻る。

 「5分ほど待つように」と運転手に言い残した下山定則氏は、

三越に入店後そのまま失踪。

 

▽~09:30

下山が立ち寄りそうなGHQやCTS(民間運輸局)に電話で確認。

 

▽~12:00

警視総監や国家地方警察の長官にも一報が入る。

鉄道公安局の局長が警視総監に状況説明。

警視庁管内の警察署に公用車ビュイックを捜索するように指示。

CTSに下山定則が行方不明であることを伝達。

 

▽12:00~

捜査員が下山総裁の足取りを調べる。

すると三越店内だけでなく、浅草方面に向かう営団地下鉄銀座線の

電車内で目撃されていることが判明。

 

▽13:40

東武伊勢崎線五反田駅で、改札係と会話したことも明らかに。

 

▽14:00~17:00過ぎ

五反田駅近くの末広旅館に滞在。

その後に下山定則氏に似た男性が東武伊勢崎線沿線に向かっている姿が

目撃されたと証言を得る。

 

▽17:00

下山総裁行方不明が公表され、NHKの臨時ニュースで流される。

公用車の運転手がラジオで聞き、下山総裁が行方不明であることを知った。

過去にも下山総裁がなかなか戻らないことがあったので、

7時間以上戻ってこなくても不審には思わなかった。

国鉄本社に電話。その後、大西は警視庁で取り調べを受けることになった。

 

▽7月6日00:30過ぎ

北千住駅から綾瀬駅に向かう下り電車が人身事故を起こした。

 

▽7月6日01:45~

首と手足がない胴体の他に、下山定則の名刺や総裁名義の乗車券が

入っているのを発見。

首手足も発見し、轢死体となった被害者が下山定則氏だと判明。

 

▽7月6日3:00

小雨は降っていたが、雨脚が強くなり証拠が洗い流される。

 

 

◆証言

三越

 ┗従業が目撃。

  NSさん化粧品売り場勤務:陳列ケース前をウロウロする

                                                    50代男性を目撃。

              行方不明のニュースで顔を確認し証言。

  AKさん履物売り場勤務:ケース前に一人の男が品物を

                                                御覧になっていた。

             その後下山総裁と認識して証言。

  TKさん案内所勤務:下山総裁の後を2~3名の男性がついており、

                                        そのまま地下道へ降りていくのを確認。

三越外の歩道

 ┗UMさん:歩道上でアルバイトとしてライター石並に

                        修理油を入れる商売をしており下山総裁に似た人物

                        を接客。

喫茶店定員

 ┗中点男性と来店する

  30分ほど男性と話をしており、最後は下山総裁と思われる

        人物が頭を抱えて考え込んでいた。

銀座線

 ┗地下鉄銀座線浅草行き電車に乗っていたNTさんの証言。

  電車が末広町を発車するときに紳士に足を強く踏まれ、

       顔を確認し覚えていた。

五反野駅改札 清算係

 ┗総裁に似た男性が「このあたりに旅館はないですか?」

       と聞かれ一緒に駅を出て、駅前の末広旅館を紹介する。

末広旅館女将

 ┗14:00、三男がお客が来たというので、玄関に向かうと、

  紳士が立っていた。「6時まで休ませてくれ」と言われ

  2階の4畳半の部屋に案内。

  窓を開けると、男は「涼しいですね、お水を一杯下さい」

  という。

  その後、お茶と一緒に宿帳を持っていき記入を求めると

   「それは勘弁してくれ」と記入を拒否。

  その後、女将と男性は雑談をし女将は退出。

  17:20頃に男性はお会計し、黒の財布を胸からだし、

  宿代200円とチップを支払う。

  男性は身長170㎝、50歳くらい、色白で、眉が開いて、

  ロイドメガネをかけ、

  髪は七三、優しい顔立ち。服装は上下ねずみ色のスーツで

  白のワイシャツにネクタイ、ヒダ付きの茶色の進駐軍の

  靴を履いていた。靴下は紺の木綿。財布は黒革。

  荷物はなく一人。

  この証言が決め手となった。

  下山総裁の身長は174㎝、体重は75キロ、

  色白で八の字の眉にロイドメガネ。

  当時の服装もすべて一致。

五反野周辺

  ┗同じような人物の目撃証言がつづく。

   証言の中には、色黒で顎が張った同じ服装の人物の

   目撃情報も上がっている。

 

 

◆事件の疑問点

①死後轢断か生体轢断か

・東京大学法医学教授は司法解剖の結果、死後轢断と判定。

    ┗血液がほとんど確認されていない。局部に生活

     反応を示す傷が見られた。

     この傷は暴行が加えられた可能性がある。

・東京都監察医務院は生体轢断であると判定。

    ┗上記は轢死体にはあり得ることと反論

     ※結論は出なかった。

 

②行方不明後の目撃情報

末広旅館女将

    ┗下山総裁の服装、装飾品、癖すべて的確に証言。

     使用済みのコップは洗っていたため、指紋は検出されず。

     部屋に落ちていた髪の毛が下山総裁の物に酷似していた。

     ヘビースモーカーの下山総裁が3時間滞在で1本も煙草を

     吸っていない。 

     女将はいつもの流れで部屋を片付けるので、

     灰皿も捨てたかもしれないと証言を加える。

 

③衣服に大量のヌカ油

下山総裁のワイシャツや下着、靴下には大量の植物性ヌカ油が付着。

機関車の整備で使う油とは違うもので、しかも上着や革靴内部には

この油は付着していなかった。

 

④不審な血痕

枕木にわずかな血痕があるのを発見。

場から断続的に続く血痕が確認。この血痕はAMQ型で下山と

同じ血液型。血痕は現場から断続的についていたが、

ある場所で途切れていて、その土手の下にはロープ小屋と

呼ばれる廃屋があった。この廃屋にも血痕が残っていた。

ただ、この血痕が下山のものとは断定することができなかった。

ある日、捜査一課がこの小屋で斧で大けがをしたという人物を

見つけ出してきたが、この人物と小屋の血痕の血液型は

一致しなかった。

 

⑤靴

下山の靴はいつもと違うクリームを使って乱雑に磨かれた跡があった。

右足は傷一つなかったのに、靴は革が引き裂かれるほど大きく破損。

⑥死後硬直の時間と死亡推定時刻

遺体の死後硬直から考えると、死亡推定時刻は7月5日の

午後9時~午後11時と考えられる。

┗まだ精度で疑問視されていて、証拠にはならず。

 

 

◆自殺説として基本的には処理されている

捜査一課は自殺説

捜査二課は他殺説

で調査を進める。

一度は自殺説で推し進めようとするも、何者かに止められる。

しかしその後も自殺説が有力となっている。

1949年はドッジ・ラインに基づいた緊縮財政策を実施することを

決めた年で失踪前日の7月4日に3万700人を解雇していた下山定則氏

は初老期鬱憂症にかかっていたという情報もあったため、

発作的に自殺してもおかしくないと考えられた。

 

 

議論

① 自殺か他殺か

② 目撃情報について

 

※以下常体終了

 

私の意見は他殺です。

理由としては、この事件が起きたことで誰が得をするのか

という点です。この事件をきっかけに他にも国鉄関連の

事件は続き、結果として労働組合の人間が逮捕されました。

このことからGHQの方針に意見を出せなくなったように感じます。

下山総裁はその犠牲の一人のように思ってしまいます。

大きな組織の前には、女将の目撃情報しかり、

情報の正しさは疑問が残ります。

 

 

よかったら皆様の意見も教えてください。

 

未解決事件 考察