村上陽一郎が、16,7世紀の科学の天才達は、唯一の神の意志を知ろうとする強い要求に支えられてきた事を著作に書いている。18世紀の自由思想家達の努力を経て、19世紀になると、「知識は、神の意志を知り、その栄光を讃えるためではなく、人間に現世的な幸福を備えたものとして、世俗的に追求されるようになった。かっことじる」のは事実だが、論理的整合性を持った唯一の統合システムにより、自然現象を理解出来るはずだ、してみせるという強い確信がある。広い視野に立つと、ユダヤ、キリスト教の一神教的な考えの延長上にある。西洋の知識人は西洋近代文明危機を感じ、自然科学のみならず、キリスト教に対する見直しも考えている。分裂病の治療の大家は、こちらが自らの中心を外す事なく、ずっと傍らにいると、妄想や幻覚や荒れ狂うのが段々収まってくるという。魂とユングが呼んだものと、どのように接触していくかについて、人間は色々考えだし、宗教という形で、伝えてきた。ユングが魂の現象について、見いだしたのは因果律によって把握できぬものがある事、意味のある偶然の一致と呼ばれたように、継時的でなく、共時的に把握する事のできるものがある事を、ユングがアインシュタインに語ると、それは極めて重要な事だから、その考えの発展を怠らないようにせよと言われたという。魂に注目するという事は、人間の全存在に対して開かれた態度で接する事であるという。その時、ただ無為である事重要である。魂はは治療者という個人、患者という個人を超えて、はたらくものだという。魂は概念という事も出来ず、明確な方法によって用いる事も出来ない。デカルト的切断の明確さに対応する為に、それは曖昧でなくてはならない。デカルトが考えるのを重視したのに対し、魂は想像する事を重視する。魂の働きを端的に体験するのが夢であり、夢創作の主体は自我ではなく、魂である。ユングの共時性の理論に対する非難の意見の一方で、ハイゼンベルグやパウリなどの理論物理学者は深い理解と共感を示しているちなみに日本では超常現象に対するアカデミックな研究は遅れているが、西洋では進んでいるロシアなどは20箇所以上の超常現象の研究機関が存在する。またユングは元型という概念を考えた因果的には説明のできぬ事象が連関して生じる時、それをアレンジしたものとして、何らかの超越存在を確信する時、それは宗教になっていくと、河合隼雄はいう。また河合隼雄は、理論物理学者のデイヴィッドボームは我々が普通近しくしている世界は、一種の顕現の世界であり、その背後に時空を超えた全一的な、暗在系を有しており、我々が五感を通じて知る世界は、色々な事物に分割され、部分化されているが、それらは、暗在系に対する明在系であり、明在系において個別化され無関係に存在しているような事物は、暗在系においては、全き存在として、全一的に動きをもって存在すると説明するこれによって、ユングのいう元型的布置に共時的現象が生じると述べている。また臨死体験について、医者が医学的に死んだと判定した後に奇跡的に蘇生した人の体験で、死後生が存在することを様々な科学者が論証している事を書いている。臨死体験をした人が、死を宣告された後の事実を正確に述べる事と、全盲の人が臨死体験の時、居合わせた人々の着物まで正確に言う事が出来る点を強調し、従来の科学とは違うが、これも科学であると述べている。臨死体験の中で、体験者に絶大な影響を与えている光の生命のようなものと出会うが、これは「チベットの死者の書」
にも書かれていて、臨死体験の研究者の報告との類似性が高いという事である。なお「チベットの死者の書」はスウェーデンボリの霊界体験と多くの類似点があることもユングは述べているそうだ。また「銀河鉄道の夜」が、宮沢賢治の妹の死に繋がると、色々な人が述べているように河合隼雄もまた考え、賢治の類稀な宗教性の為に、または彼の妹に対する深い共感性の故に、科学者が述べている臨死体験と同じような体験を持つことになったと書いている。西洋は人間が動物や植物な。こんげきこどを治めさせると書かれていて、人間と他の存在物との間に区別が存在する事になるが、中国仏教は草木土石の自然物に対しても仏性の可能性を肯定し、老荘思想では人間と万物が根源的一体性の故に本来的に平等であるとしている。日本では自然物に超越的なもの、すなわち神を見出している。またユングは当時の西洋人の一人として近代的自我を重視し、それに頼ろうとしたが、幻覚や幻聴が生じ、自分の内なる世界に自我を超える存在がある事を認めざる負えない経験をした。やがてユングは自分の全体的な均衡を示す図形を描いた。そして自我がそのような全存在と調和している時に、心の平静が得られる事を自覚し始めた。やがてユングが治療する精神障害者達も、治療過程において、彼の描いた同様の図形を描く事に気づいた。やがてユングはこのような図形が曼荼羅と類似しているし、ユングが自我を超える高い存在として実感している事は中国ではタオ(道)と呼ばれている事を知った。ユングは更に自我は意識の中心であるが、意識のみならず無意識の間にある潜在的中心ともいうべき自己であると主張する。また我々は自己の顕現として色々なものを把握できるが、自己そのものについて知る事が出来ないということだ。また心理療法家として治療者の心得について述べていて、できる限り人為を排して自然(じねん)のはたらきに任せ、自分の自我を超えたじねんのはたらきに身を任せ、しかしあくまでそこに生じる現象を把握し、できる限り理解していこうとする態度は失ってはいけないという。何もする事なく、全存在をそこに参与させる事であるという。また直ぐに原因と結果を結びつけることなく、色々な事柄の全体像を把握し、コンステレーションを読むことが大事だという。意識のスペクトルに従って、患者は下降を行わなければならないが、これは本人の主体的体験としては既設の組織を破壊するとしか思えぬ恐ろしい事として感じられる。このような恐怖感や危険性を克服してこそ、下降によって体験した事を我が事として受け入れられる。このような下降に、導き手として禅における老師や、心理療法における心理療法家がその役割を担うとしている。だが治療者が客観的態度をとる限り、患者の自己治癒力がはたらきにくくなり、治療は進展しない。心理療法家は自我による了解を超える現象をそのまま受け入れようとしなければならない。これは宗教的であると言えるかもしれないとの事である。より、人間の性質を問題とせざる負えない心理療法という領域が新しい科学と宗教の接点として浮かび上がり、人間の意識というものが、心理学の分野をはるかに超えて、今後ますます重要になってくると締めくくっている。