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『・・こんな育ち方をしていると、自分の感情を素直に表現できなくなってしまう。表現を封じられた感情はやがて鈍磨し、生きる喜びもいっしょに消えてしまう』
[出典:「魂の家族を求めて」 斎藤 学著 P207 小学館文庫刊]
今回は、しあわせの記憶について書きたいと思います。
きっかけは、とても単純、でした。
かなしみの、ドラマを観たことです。
映し出されていたかなしみは、この身にも憶えのあるもので。
いつしか胸のうちの蓋がコトリ、音をたてているのがわかっていました。
いかん、いかん、です。妻娘も一緒でしたし。(苦笑)
どうしようか、と一刹那思いを巡らし、行きついたのがしあわせの記憶、でした。
かなしみにはしあわせで。
埋めあわせようとした、とでも言うのでしょうか。
ひとりになった時間、座り直して脳裏に浮かべられる記憶をまさぐります。
探しものはもちろん、しあわせの記憶、でした。
ですが、斎藤先生や河合先生の著書を読んだ今となっては、ひとつ、基準があるのです。
それは、元家族の称賛とセットのしあわせの記憶は除くこと、でした。
うーむ、暫し、考えます。
思いを巡らせます。
胸の奥を、探ります。
えっとですね、その、結果ですが。
無い、でした。
しあわせの記憶が、です。
ありませんでした。(泣笑)
諸々引っぱり出してみたのですけれど。どれも元家族とセットのものばかりでして。
わたしのしあわせの記憶は、常に私のものではなく。
意識のうえでも、意識せずとも、「期待」を見抜いてのものでした。
ふう、肩を落とし、ベランダへ向かいます。
夏の戻りなのか、妙秋なのか、熱の名残りが空気の面、まだ、あり。
わたしに歩をあわせるかのように、靄(もや)のかかった夜景が拡がっていました。
電子煙草を吹かし、想います。
いつまで、支配されるのだろうか。
もう人生の折り返しも過ぎたであろうに。
過去に、現在に、支配され続ける、わたし。
逃れられないのだろうか。
まるで、家畜ではないか。
息をはき、胸に浮かんだ文字を口にします。
親畜人
ああ、もう一度、呼吸を漏らしました。
親畜人
しあわせの記憶すら、セットでしか無い
家畜のような、わたし。
呆けた顔のままリビングに戻り、壁と天井をしばらく見ていたように思います。
夜の闇の硝子に、ひとりの顔が映っていました。
見慣れた、当然のようにそこにいる痩せた姿に
無意識のうちに問いかけます。
ずっと、このままか
親畜人でいるのが、望みなのか
硝子越しの返答は、困っているようにもみえました。
けれど
嫌だ、とはっきりと言いました。
私の場合、のお話です。
「アダルトチルドレンは希望の言葉」
それでいいんです。大丈夫です。大丈夫じゃなくてもいいです。
「ぼくは治そうとなんかせず、ただ偶然を待っている」(河合隼雄さん)
「人格は変わる。それは世界の認知の仕方による」(齋藤学さん)
