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『・・・ときどきひそかに「みんなずるい、私を“親”扱いして」とひがんだりすることもあります。結局、五十歳、六十歳になっても、自分の中には七歳の子どもの自分もいるのです』
[出典:斎藤学著 「インナーマザーは支配する」P167 新講社刊]
今回は、ある朝の会話のことについて書きたいと思います。
いよいよ日ごとに寒さのしみる時期になりました。
朝の空気は透明度を増してみえ、遠く薄化粧をした富士山も望めます。
私の好きな季節、です。
会社へ向かう電車には、どこか週末特有の緊張感のとけかかった気配が漂っていました。
本を読める立ち位置は確保できず、冬の上衣を着けた人と人の間に隙間を見つけます。
過ぎ去っていく窓の外を見るとなしに眺め、やがて眼を閉じます。
治りたい、治りたい。
時に忘れてしまう願いを口のなか、呟きます。
あの、こういうとき、何かを得ることが多いのです。私。
あったりしませんんでしょうか、そんなこと。
意識の向き(?)が変わる、のかもしれません。
カタン、カタン、という振動のせいなのかなぁ、とも思うのですが。
電車の揺れ、また、お風呂のなかで、私ですとよくあるのです。
昨日の朝も、やってきました。
いつしか私は、私のなかのわたしと話そうとしていました。
小さな子どものわたし、です。
日々、我が身に起こる現実を受けとめきれず、時間の流れに置き去りにされ、あるときアダルトチルドレンの殻に閉じ籠ったまま数十年、そこにいます。
人は怖ろしいのだ、と思いながら、です。
通勤車両には、多くの乗客が静かに立っていました。
一体、何と話しかけたのかは、残念なことに記憶が曖昧なのです。
けれど、わたしはやがて、答えてくれました。
「ずっと、じっとしてた」
少しおいて、聞き返します。
「え・・」
もう一度、答えます。
「ずっと、じっとしてた」
何も言えずにいる私に、わたしは重ねて言います。
「ずっと、じっとしてた。おこられるから」
やや早口な小さな声で、ひと息に言いました。
次に、何故か、問うていました。
「だまって?」
「そう」
乗り換え駅に着き、地下道を歩きます。
しばらく行くうちに、ようやく答えが胸にすとん、落ちました。
あぁ、そう、だったなぁ
そうだった
わたしは、そうだった
子どもの身体を固くして、ただ、じっとしていた
黙りこくり、ひたすらに
じっとしていた
理由は、怒られるから
足を踏み締め、歩を進めます。
あたりまえ、だよ
そんな思いをさせられたのなら
今の私がおかしくて、あたりまえ
むしろ、おかしくならないほうが、おかしい
だから、安心していい
何度も言いました。
ずっと、じっとしていたわたしは
不器用に、微笑んでいました。
私の場合、のお話です。
「アダルトチルドレンは希望の言葉」
それでいいんです。大丈夫です。大丈夫じゃなくてもいいです。
「ぼくは治そうとなんかせず、ただ偶然を待っている」(河合隼雄さん)
「人格は変わる。それは世界の認知の仕方による」(齋藤学さん)