以下は、『近代民衆の記録 2 鉱夫』の中で、岡村昭彦が傍線を引いている箇所である。試みに、時系列に沿って再構成してみた。ただし、傍線箇所すべてではない。あくまで一部を抜粋したものである。(旧字体は一部改めた)



・幕末、函館の開港にともなって来航する外国船に石炭を供給するために、北海道の石炭採掘はまず始まった。釧路の白糠と岩内の茅沼に最初の炭鉱が生まれた。(p.574)

 ・長崎港外に浮かぶ高島炭坑は、慶応四年、佐賀藩と英国グラバー商会との合弁事業で開鑿されて以来、鉱山寮直轄、後藤象二郎への払い下げ、その前後からの外国商社とのトラブルの経緯を経て明治十四年春、三菱社へ譲渡された。(p.592)

・明治新政府が北海道開拓事業にあたってもっとも苦慮したのは、開拓労働力をいかに調達するかということであった。(p.577)

・日本の明治初期のように、封建的諸関係の崩壊が充分でないままに、政府による政策的な本源的蓄積の促進が、地租改正、重要工場鉱山官営殖産興業政策の形でおこなわれた場合には、いっそう低賃金労働者の大量創出の問題が深刻な意味をもつ。…この課題の解決が「囚人労働」と「納屋制度・飯場制度」の形ではかられた…「囚人労働」は高島・三池・幌内の官営炭鉱と別子銅山などでおこなわれたが、とりわけ三池炭鉱では民間払い下げ以後も長期にわたって「囚人労働」を使用し…(p.600)

・西南戦役前後より増加した国事犯はときの政府の方針―(1)治安維持の必要から反政府的分子の北辺への移送、(2)囚人の安価な労働力の活用、(3)囚人の自立更生策―等々により北海道へ集治監設置をもたらした。(p.577-578)

・三池炭坑が囚人を採炭機構の中枢に据えたのに比べ、後述のように高島炭坑は納屋制度を要とした。三池は、官営当初から囚人を使役し、まず明治六年七月、三瀦県監獄(拘禁場)が設置され、竜湖瀬坑から大牟田港に至る運炭に約五十名が投入された。…十六年四月には主力の三池集治監が開庁する。(p.592)

・明治十年代初頭から本格化した釧路川上流の川湯アトサヌプリでの硫黄採掘・精錬、さらに銀行家山田慎から買収することによって始めた安田善次郎の標茶での…(p.575)

 ・明治十五年幌内、十九年幾春別の炭山が官営として採炭を開始した。この時期で重要なことは労働力確保のためつぎつぎに各地に集治監が設置されたことである。(p.575)

・囚人が北海道で植民地的労働力の基幹的役割を果たすのは、太政官大書記官金子堅太郎の「北海道三県巡視復命書」が下った明治十八年以降であった。(p.578)(なおここに岡村はわざわざ「1885」という文字を書き込んでいる)

・…十八年十二月中(三井:引用者)集治監の囚徒に不穏の挙動あり、十九年一月中、彼等の内最も強悪なるもの四十余人を、俄に北海道に移送…(p.601)

・その本格的な開発はまず一八八六年(明治十九)三井資本によって着手され、沖縄監獄囚人一八〇名を…。これら西表島の諸炭坑における労働力の問題として特徴的なことの一つは、大規模な中国人の使用であろう。たとえばもっとも代表的な炭鉱の一つである八重山炭鉱汽船合名会社における最盛期の坑夫数は一三〇〇を数えているが、そのうち台湾人が二五〇名、福州人が一五〇名を占めている。 (p.597) 

・日清戦争の後、各基幹産業の興隆にともない、日本石炭鉱業は急速な発展を遂げるに至る。財閥系資本は競って明治二十年代末から明治三十年代初頭にかけて相次いで筑豊へ進出した。(p.595)

・明治二十年代後半より囚人充用の代替として監獄部屋ないし飯場制度が再編されてくる。(p.579)

・…『朝野新聞』社説「高島炭坑の実況」(犬養毅、明治二十一年八月二十九日~九月十四日)…(p.592) …これに対し、犬養は「納屋頭を廃し坑夫は都べて炭坑社の直轄と為す事」と納屋制度の非を是認しながらも、三菱社を弁護する側に立っていることは本編の収録文を一読すれば明瞭である。(p.594)

・…明治三十年一月、英照皇太后崩御に際し特赦の恩典に浴せし免囚を始めとし爾来年年出獄者の奇食する所なきものを集め保護会なる名義の下に監督せるものなるを以て…(p.610)

・明治六年より蜿蜒六十年近くにわたって続けられた三池炭鉱における「囚人労働」は昭和五年十二月二十七日をもって廃止されたが、その廃止の直接の理由が経済恐慌にともなう人員整理の必要であった…鎌田久明氏は明治三十年代の囚人坑夫激減の理由として、日清・日露戦争を契機とする採炭技術の進展が、囚人による奴隷的労働と相容れないことを指摘し、特に発破(火薬による爆破:引用者注)採炭がおこなわれるに至って囚人と発破の結合は資本にとって危険きわまりないものであり絶対に不可能であったと…(p.611)

・さらに注目されるのは、労働力源としての朝鮮人労働者である。大正期の第一次大戦の好況時と、時代を下って太平洋戦争に突入した時期、大量の朝鮮人労働者が本国から徴発されてきたことである。…昭和十八年夕張炭鉱の坑内夫をみると、内地人二五二七人に対し朝鮮人四七九三人という驚くべき比率を示している(p.575)

・(日本石炭鉱夫組合が昭和五年ないし昭和七年ころ作成した『労働事情調査表』について:引用者注)…在郷軍人会や青年団、青年訓練所などが労働者の抑圧に一役かっていたようである。とくに朝鮮人労働者の扱いは極端にひどいものがあったようで、およそ人間としての扱いを受けていなかったことは「日本語の上手な者は決して使用しない」と各所で述べられているところからも推察される。これは彼ら自身をかつての囚人同様人間以下の存在として牛馬のごとくにこき使うことによって、直接利潤生産に組み込むと同時に、民族的差別意識をかき立てることによって労働者の不満をそらし、運動を分断し、資本への組織的抵抗に高まらぬよう防ぐ目的のもとにおこなわれたものであろう。(p.616)

・この資料は、昭和七年八月中旬より九月初旬にかけて自らの組織と団結で麻生炭坑と闘った朝鮮人炭坑労働者の記録である。朝鮮人炭坑労働者は大正中期より急増し、労働条件の悪い大手筋炭坑、中小の小ヤマへ大量に雇傭されていった。(p.586)

・太平洋戦争中の九州への強制配転により、日本で最後まで残されていた釧路地方の友子組織(坑夫仲間、坑夫社会集団の組織:引用者注)は完全にくずれ去った。(p.576)

・日本資本主義鉱山業の人命軽視の伝統が、戦争ごとに膨張する重化学工業の発展過程において、ますます大規模に拡大再生産されて貫徹する姿が示されている。(p.596)

(比留間洋一)

例えば、上野英信氏からの手紙(1965131日付)に次の一節がある。

「前略、御令息が心血をそそがれた従軍記が出版されたことを、心からお喜び申します。…」「…送っていただいた浜納豆、わが家だけで食べるのがもったいなく、あちこちにおすそわけしております。炭鉱の人たちも昭彦君を最大の誇りとして、まるでわがことのように喜んでいます。…」

さて、岡村昭彦文庫には計4冊、上野英信の著作が所蔵されているOPAC検索による)。そのうちの2冊、上野英信編『近代民衆の記録 2 鉱夫』(新人物往来社、1971年)、『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1974年 第16刷発行)に岡村昭彦による書込みがみられる。

『近代民衆の記録 2 鉱夫』の場合、「解題」(p.571-617)に多数、傍線などの書き込みがある。到底、全部を紹介することはできない。そこで、まず、岡村がわざわざ二重線(赤鉛筆)を引いた箇所に注目してみる。それは、「囚人使役」(p.575)、「集治監」(p.575) 、「九州への強制配転」(p.576)、「罪人」(p.577)、「囚人」(p.592)である。ここに端的に示されているように、ここでの岡村昭彦の最大の関心は、一言でいうならば「囚人労働の方法としての集治監」にあったようにみえる。

(比留間洋一)


岡村春彦氏所蔵資料の中には書簡も含まれていた。

静岡県舞阪に住んでいた母親の岡村順子氏が保存していたものらしい。196212月から19651月までの順子氏宛てが計16通。そのほとんどは岡村昭彦からのものだが、その中に筑豊の上野英信・晴子夫妻からの手紙も含まれている。

なぜこの時期のものだけが残されているのか――

それは私には未詳である。順子氏が逝去したのは19685月である。

196212月のものは、これから日本を離れバンコクへ向かうという岡村昭彦からの葉書。32歳の岡村昭彦が初めて海外に出た時期。以後19651月までは、岡村昭彦がベトナム戦争報道で各賞を受賞した頃。岡村昭彦が華々しく世に出た時期にあたる。

一連の手紙を読むと、岡村昭彦と岡村順子という長男と母親がいかにお互いのことを想いいたわり合っていたか、三者(4人)がいかに細やかな心づかいをする人物であったかが実によく伝わってくる。感動的でさえある。手紙の内容はいずれくわしく紹介したい。

(比留間洋一)