昨日の真島茂樹さんの訃報のように、大好きな人が亡くなることは、やっぱりショック。

普段からあんまりTVを見ないので(好きな番組だけ録画して観る)、昨日今日と、踊るマジーを見ないで済んだ。

大好きだから、本当は見たい。

でもまだ今は、踊るマジーを自分から見にいく勇気が出ない。





というのは本音だし、と同時に、どこか冷めたというか、「まあ、しょうがないよね。」と思う自分もいます。


繰り返しますが、マジーは大好き。

その大好きとは、ちょっと何かが違う感じ。




私の父親が亡くなってから約10年たちました。

突然ではなく、闘病して弱っていく姿を数年見てから亡くなったので、心の準備というか、最期のほうはなんとなく「生きてる姿を見るのは今日が最後かもしれない」と思いながら病院の面会に行っていました。



父が亡くなって思ったこと。



「親って死ぬんだな。」

「誰も教えてくれなかった。」


今まではどんなことがあっても振り返ればその姿が見えたのに、消えた。





数年の間に祖父母が続けて亡くなったり、身近な人が死ぬことを経験していたつもりだったけど、なんだろう、親はなんか、次元が違う。





でもなぜか、未だに亡くなった感じはしなくて、でもいつも一緒なわけではなくてどこにいるかはわかんなくて、不思議な感じ。

私から姿は見えないけど向こうからは見えていて、月並みに言うと、見守られている?

とにかく、亡くなったのに【いる】ように感じるのは、親だけですね。




父は昔から松平健さんの大ファン。

私と太秦映画村に行った時も、「健さんがいるんじゃないか、いるんじゃないか」とはしゃいでおりました。


マツケンサンバⅡが大ヒットした頃はまだ元気だったので、年末の紅白歌合戦でマツケンサンバⅡが始まる直前には「今から健さんが出るぞ」とTVの前で嬉しそうでした。



その頃の私は知らなかった。

数十年たったら私がマツケンにハマり、マツケンサンバⅡを毎日のように聴いて我が子に布教し、マジーの踊りを食い入るように観て、素敵な時間を過ごせることを。




それもこれも、やっぱり、父が今もなんとなく近くに【いる】からだと思うんだよなあ照れ


私がマツケンサンバⅡを聴くときは、マジーの笑顔だけでなく、父の笑顔も見えるのです。




近いうちに必ず、聴こうニコニコハート