7つの大罪が、人間にはある
という。
虚栄
嫉妬
倦怠
憤怒
強欲
貪食
淫蕩
これらの罪はそれぞれ、悪魔や妖魔に擬人化され、キリスト教文化圏で忌み嫌われる概念だ。
このうち、私が冒しているのは、「倦怠」だと思う。
何かして人の害になるくらいなら何もしなくて良い、だとか
どうせ何をしても無駄に思えるから何もせずに永眠したい、だとか
辛い、悲しいなどと思うと、わりとすぐに
「ああもうどうでもいい、全部めんどくせぇ」
と慢性的な厭世観でもって逃げ出し、
何もしたくない病を発症するのだ。
我ながら、こんな精神的傾向さえなければ、あの時もっとうまくいったのに、と反省することが多々ある。
おそらく、今までの人生において、過干渉でお節介な人に不当に介入されて傷つくことが多かったため、
他人に介入したがる人を虫のように毛嫌いした果てに、
「せめて自分だけは他人に対して余計なことをしない人間になりたい」
との願いが偶に行き過ぎることがあるんだと思う。
何ごとも、行き過ぎは良くないな〜と反省する。
それほどまでに「過干渉への恐怖」が私の心に巣食っているのかもしれない。
「無関心は愛情の対義語だ」
なんて考えは、本当に気持ち悪いと思う。
現にマザーテレサは聖女の評判のその実、患者に痛みを和らげる治療ではなくむしろ苦痛を味合わせる治療をしたがる思想に染まっていた裏の顔がある…との言説も今では割と有名な話だろう。
ある側面においては、患者が受けたのは治療などではなく、思想の押し付けという暴力ではないか?とも言えよう。
「押し付け」という暴力に晒されるくらいなら、
無関心を貫いてくれた方がよほど愛情深い。
少なくとも、ほっとかれる分は私の自由にできるのだから…
などと考えてしまう認知の偏りを自覚している。
ちなみに、
他の罪については、心配いらないと思う。
というのも、そもそも倦怠に身を浸していると、基本全てがめんどくさいので、
「虚栄」を張るの面倒くさくてメリット不明、
「嫉妬」するほど他人に執着するのが面倒、
「憤怒」を抱くのもカロリーの無駄、
「強欲」できるほどにお金を稼ぐのが面倒、
「貪食」できるほど消化器が強くないし、
「淫蕩」する以前に人付き合い自体が面倒、
となり、オールクリアであるwww
いや、人として終わってるのは変わりないんだがw
そんな私目線で見ると、
女性たちは、よく「嫉妬」してるように見える。
いつも人と自分を比べて、人の方が優遇されてると思い込み、文句垂れてる人多いな〜って思う。
それが、常に倦怠してる私からみたら不思議な習性に思える。
面倒くさくないのかな?って。
人のことそこまで気にするのがそもそも面倒くさいじゃん?って不思議に思う。
そして、男性たちはよく「貪食」してるように見える。
なんですでにビール腹なのに、またビール飲んでるの?みたいな。
すでに、太ってるなら、余計太るような食事は辞めたらいいのに、やめられないのかな?
男性はあまり自分の見た目に気を配らない人が多いな〜?なんでかな〜?と、不思議になる。
しかし、それらをやめられるとしたら、私みたいに怠惰な厭世観バリバリの終わってる人間になってしまうのかもしれないのでwww
それはそれで困ってしまうだろう。
嫉妬してても貪食してても、人生にアグレッシブならば、まあ、それも一つの生き方なのかな?と思う
結論としては、
7つの大罪のどれにも侵されていないような高潔な人なんて、せいぜい悟りを開いた人くらいだと思う
だから、せいぜい自分の罪を見つめて自覚することが大切なんじゃないかな?
と思った。