※私がここで言及している「スピリチュアル」とは、精神性という広義の意味ではなく、所謂スピ的な(?)狭義の意味です。



私個人は、それらは哲学や心理学とかと同じく単なる「他の人の思想」の一つみたいな感覚で、フラットに捉えており、特に信じていたり傾倒していたりするわけでもしないし、非難するわけでもありません。


そもそも、なんであれ他人の言っていることを信じるということは、自分以外のものに寄りかかることと同義であり、本来あまり必要ではないことだという認識があるので、


スピリチュアルに限らず、他人に対して何らかの信仰を要求する布教行為自体を疑問だと感じている点において、

絶対的普遍存在は信じているけれども、それは他の誰かが語る神ではありえないという、一見無神論みたいな、わけわからん私の意見など、決して真っ当な判断ではないんだろうな、と自覚しており、

決して他人の信仰心を軽視したりしているわけではないことを、あらかじめ弁解しておきますウインク



前置き長くてごめんなさい🙇‍♀️

本題に入ります。


所謂スピリチュアルとか、ニューエイジとか、そのような新興の精神世界を語る系統の人たちが、なぜ一般的に胡散臭いと思われがちなのか?

という問題について、私なりに考えてみた。


あくまでも私見だが、それは大部分、


「特殊な固有名詞混じりの言葉を当然顔で話してる」ことに起因するのではないか?と思った。


例えばどんな固有名詞かというと、

アトランティスだとか、ムーだとか、

シリウスだとか、プレアデスだとか、

そして、それが自分の前世だとか何とかあんぐり

インディゴだのクリスタルだのレインボーだの、みんな自分を唯一無二だと特別視されたいのに、レッテルは進んで貼られたがるんだね。

それを本当に不思議に思う。


その、まるで大学のサークルみたいな内輪ノリで、それらのよくわからん固有名詞を当然のごとく羅列する姿が、側からみたら、どこかよくわからない怪しい秘密結社みたいで意味不明なんだと思う。


そのサークル内にいる人同士には伝わる何かがあるんだろう。

しかし、一般的な言語体系からは外れたそれらの概念を、さも一般的な言語であるかのような感覚で喋っているのが、外からみて異様に映るんだと思う。


私は何も、彼らが嘘をついているとは思っていない。

彼らには本当にアトランティスやムーやシリウスやプレアデスがみえているのかもしれないんだから。

そこは否定しない。


だけど、

(これ、言っていいのかな?)


さも特別視できそうな固有名詞でもって、本来は言語化できないはずの超越した概念を固着化し、その共通幻想に他人を巻き込もうとしてる時点で、

どんなに新しさや新時代を標榜しようとも、

もはやあなたがたも旧態然とした宗教の在り方に染まっている。


超越は、捉えないからこそ超越であり続けられるのに、

あなたがたは、それをご丁寧にわざわざ名前をつけて虫籠に入れて安心しようとしている。

そんなものはもはや、超越とは言えないんだよ。


そればかりか、虫籠の中に押し込めて変性した超越に物質的皮膜を被せ、グッズを作成するなどして売り込もうとしている人までいる。


グッズなんていう物質を所持したとて、目指すべき精神性と共鳴できる保証はないはずだ、というのは誰でも分かると思う。


故に、広義のスピリチュアルを感知していたら、

そのような狭義の「スピリチュアル」のやっていることの矛盾点が「スケスケ」状態になるだろう。

だから、なんかどこかチャチな茶番見えしてしまうんだよ。


信じたい人は、信じたらいいと思う。

信仰は自由だから。


だけど、

わかりやすくデモンストレーションされているものの中の真実など信じてしまったら、

ほんとうの意味での「信じる」強度は、むしろ下がるのではないか?


剥き出しの「信」は、風前の灯火のように孤独で吹きっさらしだから、「わかりやすくそれっぽい何か」にもたれかかりたくなるのは仕方ないかもしれない。


だけど、この灯火を守れるのは、そのように他所から「与えられた」ものなどではない。

自分の内側から灯し続けるもののはず。


その絶対的な孤独たるや、悲惨だろう。 

だからみんなそれを避けたがる。

虫籠に入れたがるし、

名前をつけて欲したがる。

同じ灯台の下に、群れたがる。


でも、おそらくだけど、

そんな一時的安らぎに逃げることなく、

ひたすら灯火を見つめ続ける悲惨に耐えられる人のみが、

真に信を得られるのではないか?


信じることとは、本来、そのくらい

仄かで秘めていて真剣なはずだ

と思うのだ。