同僚が面白かったと言っていた本を読んでみた。
『かがみの孤城』辻村深月
現代日本作家の小説は、文章に雑味が多いからあまり読めないんだけど、この作家さんの小説は文体が比較的シンプルだから最後まで読めた。
ベストセラーというのも頷ける、鏡の国のアリスのような古典的仕掛けの中に、現代を生きる少女たちの葛藤が描かれた良作だと思った。
最近の日本の小説や映画を鑑賞するにつけ、少し気づいたことがある。
令和における暴力と、それに対する安寧の定義は、一昔前と少し違ってきてるのかな?
私はネトフリで、主にアニメばかりだけども、時々日本の映画とかも観る。
最近観た『正欲』や『流浪の月』とかに描かれていることについて、この小説と少し似てると思った。
主人公であるこころは、
学校という名の「周りから浮かない振る舞いが何を差し置いても正義だ」みたいな不文律がまかり通る空間に晒されること自体を暴力と感じ、
それを暴力であると感じる心を否定されない空間を安寧だと感じた。
上記の日本映画においては、
主人公たちは、
社会の中で当然だと思われている男女の肉体的接触を伴う性愛の価値観を不文律的に押し付けられることを暴力と感じ、
それを暴力だと認識する感性を否定されない人間関係に安寧を感じた。
一昔前までも、そのような構造の作品はたくさんあったが、どこか、空気感が違う気がする。
うまく言えないんだけど、
主人公たちが、堂々としている
みたいな…?
一昔前までの作品には、どこか、それでも「社会的不文律の方が正しくて、自分たちは後ろめたさを感じなければならない」みたいな空気があった感じがするんだけど、
これら令和の作品群は、自分自身に対する後ろめたさや自責はなく、それよりも、その価値観であるがゆえに「周りに理解されない苦しみ」の方に力点が置かれている。
むしろ、自身の価値観については、自分自身で信頼できている、という印象を受ける。
社会の不文律のもたらす隠れた暴力性に気づく人が増えてきたから、このような空気感の変化が起こっているのだろうか?
だとしたら、前世代の日本でまかり通ってきた
「とりあえず周りから浮かないために友達をつくるのが常識」とか、
「人とベタベタ肉欲前提の恋愛をするのが当然であり正義」
みたいな空気に辟易しているのが、
現代の若者にある程度共通の意識なのかもしれない。
まるで「心の交流は、二の次でよい」みたいな、心おいてけぼり感への抵抗を無視されたくない
というのが本懐かもしれない。
クラスという所属コミュニティの均衡のために、好きでない人とも
とりあえず「友達ってことにしていい?」
みたいな空気感にもう付き合いたくないんだろう。
恋愛においても見えないルールブックがあって
とりあえず「告って付き合って」
とりあえず「何回目のデートでキスして」
とりあえず「何回目のデートでセックスする」
みたいな、心の段階はさておき、体の段階は進めるのが相手へのマナーみたいな文化が、気持ち悪いんだと思う。
そして、そのルルブをこなせない人は、一律「モテない」「魅力がない」「コミュ障」みたいなスティグマを付与される理不尽がまかり通る世の中
そんな空気に無言で抵抗したいと思う人も多いんだろうと思う。
昭和のおじさんやおばさんの、その手のルールブックを当然のように強要する人生観や恋愛観がしっくりこなくてキモいと思うのは、平成育ちの私でも感じることだから、そりゃ、今の若者には相容れない部分多そうだと思う。
(昭和人間からは「草食」とか「ゆとり」とか、なじられるのかもしれないがw)
しかし、コロナ禍以後は飲み会も減って、令和世代はその前世代のセクハラに晒される機会も少なかった分、一番精神的被害を受けたのは、なにげに今の私たち世代(20台後半から40手前の世代)なのかもしれないけど。
これから、新しい時代がくる。
Z世代のみんなは、ゆとり世代の屍を超えて、もっと違う地平に立っててくれたら、オバチャンうれしい☺️