社会には正解があるようでいて、実は無い。
「社会に適合する」とは何だろう?
社会に適合しようと思うと、社会で当たり前だと思われていることを受け入れなくてはならないだろう。
それは、ある意味「盲目性」とも言える。
「社会で当たり前とされていること」や
「みんなが良いということ」
を、そのまま盲目的に善だと受け入れること
こそ、すなわち、社会において褒められる「社会適合性」といっても過言ではなかろう。
では、「社会不適合とは、何か?」というと、
この盲目性を持たなかった人と言える。
社会で当たり前と言われていることや、みんなが良いと言うことを、
当たり前に盲目的に受け入れることを
「一旦保留にして考えてしまう」人たち
というだけだ。
社会不適合というと、何かしら罪があるような印象を持たれがちだと思うし、
体制側からするとコントロールしにくい厄介な奴らだろうから、マイナスイメージを付ける情報コントロールが敷かれるのは仕方ないのかもしれない。
だけど、いくら社会から否定されたとしても、
構成員みんなが盲目的にイエスと言うような社会は、もはや健全な社会ではあり得ない。
全体主義的な病的管理社会になってしまうからだ。
だから、世の中の当たり前について、一旦保留にして考えられる才能を持つ人は、「社会不適合者」など一方的なレッテルを貼られ弾圧されるような現状は、断じて受け入れるべきではないと思う。
社会にとってマイナスではなく、それどころか、逆に、社会の持続的可能性を拓く存在であると言える。
(多様性を受容できない社会は滅ぶ)
だから、その才能を持つ人たちは、いくら社会からマイナスイメージを植え付けられようとも、その持ち味を失わず、自分に誇りを取り戻してほしいと思う。
今の社会のマジョリティをなす、民主主義の皮を被った全体主義者たちなんかに、負けるな!とエールを送りたい
「社会不適合者め」
と言われたとして、
「あなたは、盲目なだけだ。」
と返せばよい。
世界はもともとフラットなのだ。
適合しているとか不適合だとか、そのような区分けは全てナンセンスなので、
そのような気持ちわるいローカル文脈は、単に恣意的な政策であり、真理ではない。
単にマジョリティ側にいるというだけで正義ヅラするきもちわるい輩が、平気でのさばる気持ち悪い世の中には、ちゃんと「気持ち悪い」と言ってよいと思います。