この人、賢い人だな

この人、哲学的な人だな


と思っても、そんな人でも「女に逃げる」とかいうワードを普通に使ってるのを発見すると、

やはりその人も所詮「男という身体」を通して思想しているんだな〜と思う。


いかなる思想も、身体性を免れない。



誤解してほしくないのが、女に逃げる思想家を否定したいフェミニスト的視点で批判したいわけではありません。

だって、男に逃げる女思想家もいるかもしれないでしょう?


そうじゃなくて、ただシンプルに、

どんなに普遍性を体現していると思える思想家でも、

その性からくる身体感覚を意識上にのぼらせている。


そのため、全てを包括した「普遍」には、人間が人間であるかぎり、なお遠いんだな〜


という気づきについて述べている。


純粋な思惟なんて、人間には無理なのかもしれない。

どんなに賢い人だって、性という極性のある身体が放つノイズの影響範囲内にある。


子宮を持つ人にはわからないことがあるんだな〜と、ペニスを持たない人は眺めて、

ああ自分には子宮があったんだな〜と

気づく、みたいな。

どこまでも身体的だから、

その極性を放棄できない限りにおいて、普遍を語ることにすでに矛盾が生じている。



しかし、誰も「普遍」を獲得していないことを確認することは、健全なことだよ。


だって、そうしえないと、盲信したり、心酔したりというキモ現象起きるじゃん?


「お前、すごいな。」

の後に、

「しかし神からの視点でみたら、所詮次点以下だけどなw」


と注釈をつけられているから、

人間は平等について語れているんだよ。


その絶対者を人間の他に想定する思想自体は、一神教的かもしれないんだけど

その絶対者とは、全てを包括する存在「普遍」だから、むしろ汎神的的、無限なまでに多神論的となりうる…という無限ループになる。



だから、絶対的なものという概念自体がすでに矛盾


それを分かってもなお、絶対を問う意味って、何なんだろう…?