この記事をもって、私はmbtiジャンルの記事を打ち止めしようと思う。
他の記事にも書いたように、私はmbtiは単なる雑談ネタだと思っている。
なんか星座占い的な、共通の話題みたいな感覚。
人間は、1人1人全く別の個性を持つから、本来は16タイプに分けるなんて無理すぎる話だし、類型に拘れば本質を見逃してしまうと思う。
そう思う一方で、mbtiについての記事を書き続けたのは、
謎にmbtiに関する記事へのアクセス数が多かったからだ。それだけ需要があるのかな?と思った。
私は本当は趣味のバレエについて語るブログのつもりでブログを始めたが、バレエ記事よりも閲覧されているようなのだwww
世の中の関心がmbtiに向かっているんだ、と感じ、それだけ、「自分を分析し、自分自身と対話したい」と考えている人が世の中に増えているのかな?と感じた。
INFP型と一口に言っても、いろんな人がいることはわかっている。
しかし、そのタイプの人にある程度、共通した特性が見られるらしいこと、
具体的には、
「感覚になんらかの過敏性を帯びており、生きづらいと感じる傾向が強い」
「日本の相互監視社会で一般的な対集団的ではなく、対個人的な感性を持つが故に、コミュニティから遊離しやすい傾向が強い」
こと。
これらについては、INFP型と診断される人にある程度共通に言えることではないか?
という推論(あくまで推論)のもとで、
そのような性質をもつ他の人たちに向けて、自分の今までの人生で得た反省点や、今までの対処で得た知恵などを、発信しようと考えた。
それが、もし、同じ悩みを持つ人の参考になったり、1人ではないと思ってもらえたら、すこし嬉しいな〜
くらいの感覚だった。
もしかしたら、「そう思うのはお前だけだろ。INFPがみんなそう思うわけではない。傲慢な奴め」
って思われたこともあったかもしれないと思う。
「1人ではないと思って慰められたかったのは、実のところ、お前自身だけだろ」?
って言われたら、ぐうの音も出ず認めるよ。
お前の記事、100%自己満足だと言われたら、多分そのとおりだと思う。
だから、タイプ論は、どうしてもその手の「決めつけ」や「イメージの押し付け」
を免れない。
そのことに、ずっと自分でもモヤモヤしてたんだ。
モヤモヤしたまま続けても、それを読んでくださる読者さんもモヤモヤしちゃうだろうと思うから。
だから、もうこの記事をもって辞めようと思った。
最近、タイプ論での嫌な面を見たことも、辞めようと思ったキッカケである。
INFJは優れていて希少で特別だからという謎の選民思想でINFPをはじめとする他のタイプをやたら迫害するような発言をしてる人をYouTubeで見たり、
ESTJを最初から冷血漢と決めつけるような先入観を持って叩くマジョリティに対して、逆に反抗心から他のタイプを無能扱いするそのタイプをネットのコメ欄で見てしまったり、
もしかしたら、炎上のための工作か何かで、本心じゃないのかもしれない。
でも、自分を理解するためのツールが、そんなふうに他人を攻撃するためのツールになってしまっているのを見るのは、とても悲しいことだ。
また、精神医学の専門家でもない素人が「〇〇になりやすいmbti」などと、特定の精神的障害とmbtiを結びつけるなど、誤解と偏見を助長しかねないような発信をしている輩もおり、中世の魔女狩りのように狂気的な様相まで帯びている感がある。
自分とは違うサイドを異常者扱いして満足する行為は、人間が歴史の中で繰り返してきた愚行の一つだろう。
その愚行の魔の手が、どうやらmbtiにも及んでしまっているらしい。
本来一人一人違う人間をタイプで括って、あろうことかヘイトや偏見を撒き散らすなど、文明人のやることではない。
タイプ論をはじめとする類型化は、ツールとしてのみ利用すべきであり、
それをアイデンティティの代弁者に仕立て上げてはいけない。
しかし、その境界線が、進展したネット社会ではとても曖昧だ。
私は〇〇〇〇タイプです
ということが、名刺がわりになる事態は、普通に考えて狂っていた…
そのことに気づくのが遅くなり過ぎて、私は私がとても恥ずかしい。
やはり、私はあまり賢い人間ではないのだろう、と反省した。
例えば「INFJの私が語る映画レビュー」だとか、それはもはやシンプルに「私が語る映画レビュー」で良かったはずなのに、わざわざ「INFJを代表して言っています」というポーズを取って人気取りをしようとしているようにしか見えない。
まるで、「自民党の〇〇です」と言う日本の政治家のようだ。何かの隠れ蓑がないと自己主張ができないのだ。
これはとても日本的だと思った。
自作の歌は歌えないけど、人の歌なら大声で歌えるから、日本ではカラオケが大流行りするんだろう。
そのような人が次に向かう先はだいたい決まっている。自作の歌を歌う人を、軽んじる。
「私の主張は〇〇を代表して言っているのだから、エゴではない」として、何も代表していない人のとこをエゴイストだとこきおろすのだ。
隠れ蓑の欺瞞を暴かれないために…
しかし、なんと、その手法は、日本では通じてしまうのだ。
日本人は、「みんなそう言ってますよ」という言葉に弱く、そう言ってくれる人を待ち望んでいるから。
その隠れ蓑の下であれば、たいてい何を言っても何をしてもなぜか許されてしまう文化がある。
それがたとえ被り物を被る知恵をつけただけの紛う事なきエゴイストかもしれなくても…
だから、持論を展開する際に過度にタイプ論に依存することは、日本の政治家のような隠れファシズムマインドに自分を近づけることに他ならないのだと、
mbtiに間違った機能まで付与している輩を見るにつけ、感じた次第である。
私が過去に書いたINFPについての記事は、
もしも寛大な読者の皆様が、
INFPが書いた記事
ではなく、
私が書いた記事
と読み替えて貰えるならば、
少しだけ、残す意義はあるのかもしれないと思う。
他のタイプについても、
そのタイプ全体について言及しているのではなく、
あくまでも
私が今まで出会ったことのある人がたまたまそのタイプだったよ
と捉えてくださるならば、(元記事にもその旨注釈はしていますが)
人間関係でよくありがちな場面での反省文集としてなら、消さないでいることができるかもしれない、と思っている。
でも、いつか私の心がアップデートされたら、旧式の意識で書いてるそれらの記事を恥ずかしいと思って、消してしまうかもしれない、と思う。
mbtiを盾に、たかが主観的な意見を一般的言説と履き違えた寝言を飽きずに流布している人がYouTubeでおすすめに上がってくるのが本気で邪魔くさい。
私は心理学関係の動画みたいだけなのに、素人の寝言動画勝手に視界に入るのマジ邪魔すぎるんだが。
まあ、それらはまだ未熟な場合のNi-Tiループサンプルってこんな感じか〜くらいでスルーするのが吉なのかも
しかし、一般論として、若い人が社会から断絶して引きこもってたら、あんな風に不健全化しやすいのかもな。
現代の都会に生きる若者は、他者と断絶しやすいから、誰もが病んだループに陥りやすいのかもしれない…
しかし、結局それは彼ら彼女ら「自身」の問題であって、mbti議論全体を巻き込むほどのものでもないはずだ。
自分自身の問題をさも社会全体の問題のように扱ってしまうのは、経験のバリエーションが乏しい都会育ちの現代の若者の特徴なのかもしれない。
普通、広い世界を知る人ほど、知ったかぶりが怖くなるから。
(平気で知ったかぶりができてるうちは、まだまだ世界を知らない。)
少なくとも、私はそんな馬鹿馬鹿しい茶番からは距離置きたい。
さようなら、mbti
こんにちは、自分