さて、前回の講義では、BLを生み出した現代の社会的背景について考察した。


皆のレポートも読ませてもらったぞ。

中には、私が講義で取り上げたような典型的な美少年像からは外れたBL主人公について言及し、

「ステレオタイプから脱した自由なキャラクター造形が可能になる無制限性こそ、BLの真の魅力ではないか?」と示唆する意見もあった。


確かに、ここまでの広がりを見せている文化に対して、形式美とかいう枠組みを設定すること自体がナンセンスじゃろうな。

BL黎明期とは異なる意識や価値観が、女性たちの意識に芽生えてきていることの証かもしれない…


まさか右に逃げても左に逃げてもアゴで刺されるとは、考えてもみなんだ…

…いや、独り言だ。


…とにかく、

豊富なバリエーションについての考察は、講座の後半で取り扱うつもりだから、皆、ちゃんと予習しておくように。


というわけで、

というか、どういうわけかわからないが、

今回は、前回質問に出たオメガバースとは何かについて考えてみたい。

BLを求める女性読者の目的が、女性の「身体性」からの距離感であるとするならば、なぜ妊娠可能な男性が描かれるのだろうか?

それは、ある意味、矛盾といえるのではないか?


まあ、そもそも全てのBL愛好者がオメガバース愛好者とは言えないと考えられ、より厳密には場合分けが必要だが、この講義ではオメガバースという概念がBLという土台の上に生まれた、BL上の一系譜であるという仮定を前提に概論だけ話すから、

もし別視点が可能だという生徒は、また別途、レポートで教えてほしい。

諸君からの、アゴで刺すような鋭い指摘を待っておるぞ。



…ゴホン。では、結論から言おう。


「オメガバースは150年の歪み整体」

じゃ‼️


…今、聞く気を失ってスマホを取り出した諸君、

けしからん!!!!泣


…まあ、今からちゃんと説明するから、少し待ってほしい。


BL黎明期の作品群では、前回例に挙げた、歴史的偉人の生涯を下敷きとした『日出処天子』や、世紀末フランスの貴族社会を舞台にデカダンスの粋を尽くした『風と木の詩』など、

日本の少女である読者とは遠くかけ離れた環境にある架空の貴族的美少年が描かれていた。


しかし、BLが一般的になるにつれ、徐々にBL作品の主人公が、等身大の、読書との属性に隔たりの少ない存在として描かれた作品群が増え出す。


学生服の、ごくごく普通の、その辺にいそうな感じの主人公じゃな。

この時代、BLが仮想性から現実性へとシフトした。


では、BLが現実となった時に現実として立ち現れてくる愛の障害とは何か?


妊娠、そして出産不可能性

そして、それは結婚の問題にも絡んでくる。


ここが肝だ。

すなわち、架空の夢の世界であったBLが現実性を帯びるとともに、BL世界における問題が、実際の読者(現代女性)の問題に肉薄し出した。


ここでBLの話を一旦脇に置き、「結婚」という概念が生来抱えるある種の複雑性について整理しておこう。


「結婚」とは、それ自体が複数の問題を抱えたコンプレックス形態を成す概念だと、

私は捉えておる。


イエとイエの結び付きという結婚形態はもはや薄れ、現代においては、

結婚は、言わずもがな、恋愛及びその根拠となる性的欲求の延長線上にあるものだと考えられている。

結婚式とは、平たく言えば、

お互いがお互いを「自分は、この人を相手だけに一生セックスできます」と周りに宣言する場

だと言っても間違いではないじゃろう。

だから、結婚は性的嗜好の表明となるわけだ。


一方で、結婚は、ある種、政策として社会側が要請してきた歴史がある。

明治以降、戸籍制度が導入され、人口動態などがの把握、管理されるようになった。

個々人が完全にバラバラよりもある程度戸籍ごとに纏まってもらっていた方が、為政者(政府)の都合がよいという面はあるだろう。

社会における相互扶助の基本的単位として、家庭が想定されており、その家庭を形成する前段として、結婚がある。


しかし、「性的対象の特定」と、「相互扶助の最小単位の確保」

のみで良いならば、同性愛者も結婚できるはずだ。


しかし、現行の法律上、結婚にはもう一つ要素が加味されている。

そう、「子供が作れる」という生産性を言外に期待されるからこそ、異性間のみ公に認められる制度たりえておるんじゃろう。


子供がおろうとおるまいと、結婚当事者間に愛という名の無形財産が構築されるならば、子供が実態として存在しようがしまいが、そんなことはどちらでもよいと、私は思うんじゃが…

目に見える何かを作ることだけが、そんなに大事なのじゃろうか?

子供を工業生産物か何かだと思っておるんかの?全く、腹立たしいことじゃ。


…ゴホン、話が逸れたな。


つまり、結婚という制度が要請している条件を全てつつがなくクリアしようと思うと、

・自身の性的嗜好を満たすこと

・相互扶助し合えると認められること

・相手と子供が作れること

の全てをクリアしなければならないこととなる。


そりゃあ昔のように、イエとイエの結び付きで好きでもないのに結婚させられるのは悲劇だ。


しかし、「この人、経済的・社会的には好相性なのに、生理的には無理」みたいな場合は、性的嗜好を一致させなければならないことがネックになろうし、

逆に、恋愛相手としては良いけれど、生活力がないから結婚できない、みたいなパターンもあるだろう。

上記の3つの条件を完璧に満たす相手を探さないといけないというプレッシャーは、実はかなりハードモードだと思われる…


しかし、社会は、そのハードルの高さという現実にあまり目を向けられると少子化が加速すると考えて、「○クシィ」のCMのように、「結婚=なんとなく幸せそう」というイメージ戦略の砂糖コーティングを施すとともに、

未婚者に対して「負け組」という人格否定のスティグマを植え付けるという、

小手先の施策でなんとか若者を結婚させようとしている。

(その小手先戦略に騙されて(?)結婚した者が多いからこそ、今の日本の離婚率、DV、児童虐待発生率なのじゃろう…)


このように、まるで日本の結婚制度は、

「背骨歪みまくって歩けないのに無理矢理足引きずって歩いてる人」

みたいなことになっておる。


また話は逸れるが、

私は、結婚が、単に社会的相互扶助目的に絞って展開されるべき制度であると考えておる。

性的興味の対象であることや子づくり可能性などは、(もちろん兼ねても良いが)必須条件としては問わないことにするんじゃ。

そしたら、もっとみんな、安心して手を取り合える社会になると思うんじゃが…


…すまん、話を戻そう。


そんな欺瞞と矛盾に満ちた結婚制度に対して懐疑的になる自分を鼓舞しようとすると、社会人としての立場を確立して男性と対等に実績を積むことが必要だが、

実際としては、女性の身体は生理があり、男性よりもコンディションが揺らぎらすいハンデがある。

しかし、そのハンデは社会生活上、明るみに語られることもなく、女性はそのハンデをひた隠したまま、辛い生理痛でも当然のような顔をして出社しなければならない。当然、周囲の理解はほぼ皆無だ。


オメガのヒートの描かれ方は、少しこの状況と似通ってあると思うのは、私だけだろうか…?


妊娠出産のための生理反応にすら後ろめたさを感じなければならない社会で戦わないと、

欺瞞に満ちた結婚制度に自己弁論すら立たない状況。

そんな社会の中で女性が抱える複雑な問題が、オメガバースの設定背景には多重に絡まっていると、私は思っておる。


ゆえに、そのような困難を乗り越えて達成されるオメガの結婚という現象が、女性の、社会の歪みが蓄積された心にヒットしているのではないか…?

と考えておる。


まるで歪み直しのバキバキすっきり整体じゃな。


社会的な要因を無視すれば、BLは「美少年」像の追求でよかった。

しかし、そこにはどうしても身体的な要因による社会的障壁が存在する。

その主人公は、いかに女性読者のモノローグを代弁しようとも、男性の身体をもつという事実が厳然と横たわり、女性の全てに寄り添えるわけではないからじゃ。

(まあ、その障壁の存在こそが逆にBLの一種のデカダンディズム〜を生むんじゃとは思うが)


女性の社会的な状況下において無言のうちに抑圧された社会的障壁…

その全ての解消を全方位的に望む心が、オメガバースを産んだのではないか?と、私は仮定している。


その意味では、オメガバースはBLというジャンルの最終進化形態、最終地点にあると見ても過言ではないじゃろう。


本日の講義は以上じゃ。

いささか風呂敷を広げすぎて論点が散漫になってしまって、申し訳ない。


次回は、歴史を下敷きとしたアニメやゲームなどのコンテンツを取り上げ、サブカルにポストモダニズムがどう影響しているのか?について考察してみたいと思う。


…ハイ君、何かね?

「次回からマトモになるんですね」じゃと!?


マトモだとかマトモじゃないだとかの価値判断は、現象を現象として見る際には蛇足じゃ。

思想と性癖は本来無関係だ。学問とは、そういうものじゃろ?


シラバスの注意事項にも書いてあったじゃろ?

「マトモさを求める生徒は受講すべからず」

単位が欲しければ、クレイジーに慣れなさい。(パワハラ)




(アホ博士のサブカル論 第3講 おわり)