まず、前提として、
神(絶対的、超越的な存在)を想定すること
と、
宗教を信仰すること
は、
イコールではない。
つまり、
特定の宗教を信仰していないからといって、神的な存在を否定しているわけではない。
※日本はあまり特定の宗教が浸透していない(多神教)から、この感覚はポピュラーだと思っている。
また、
神的な存在を信仰すること
は、
特定の社会的な立場を示すことと同義ではない
という前提も、日本ではさほどおかしいことではないだろう。
例えば欧米では、カトリックなのか?プロテスタントなのか?によって属する社会的コミュニティや支持する政党が違ったりすることは当たり前であり、神への信仰が社会的文脈の中に組み込まれている。
むしろ、自身をコミュニティの中に帰属させるために、そのコミュニティが信仰している神を信仰する、という向きさえあるだろう。
逆に、社会的なコミュニティ意識と神への信仰との結びつきが弱い日本のような社会においては、何を信仰しようと社会的立場にはあまり影響がなく、しょせん個人的な範疇の自由なので、「神対自分」という、他者を介さないパーソナルな信仰が可能となる面があるだろう。
ここで、私は、いつも一つの矛盾点に思い当たるのだ。
唯一神を信仰しているはずの欧米は、
パーソナルな神を信仰することよりも、社会に承認された神を信仰することを優先しており、
それはある意味でたくさんの他者を想定した信仰という意味では、汎神的な在り方である。
多神教的なはずの日本では、
信仰に社会的な立場を想定しないため、信仰において他者が介在しない、パーソナルな信仰が可能となっており、自分の心の中専用の神という、唯一の神を想定した在り方である。
そのように言えるのではないか…?と。
逆になっている、というよりは、
一神教と多神教は、実は、対立する概念ではなく、実は、互いに裏で支え合っている概念なのではないだろうか?
と推測するのだ。
一神教を極めようとしたとき、その集中による波及効果で社会全体を巻き込むために、図らずもユビキタスな在り方に近づき、
多神教で外面的には焦点を散らすからこそ、内面においてむしろ限りなくパーソナルな信仰が可能になる…?
そしておそらく、この現象は、宗教だけにとどまる話ではないのでは…?
唯一のものを定め、共通ビジョンを見ることで集団で催眠にかかろうとするのか?
自由を標榜するからこそ、自分自身の信仰という芯を持たない限り進めないという不自由を乗り越えるのか?
この二者択一は、いつでもどこでも迫られており、そしてそれらの選択は二者択一に見えて表裏一体である…
神について考えるときとは、人が自分の生き方を問う時なんだ、と思った
(何言ってんだ頭沸いたんかコイツと思った方、あなたは正しいw)