過去の記事にもいろいろ書いてるけど、私は、
「子供の自殺対策について社会がどのようにアプローチしているのか?」
ということに対して、日頃からとても関心を持っている。
なぜなら、大人の存在意義とは、
「子供を如何に死なせないか?」
に尽きると思っているからだ。
コミュニティの中で弱い立場の者を、いかに守るか?をちゃんと語れない社会は、他の何をどう頑張ろうとも、すでに終焉している社会だと思う。
この記事では、
こども家庭庁が打ち出している、「こどもまんなか施策大綱」の中で語られてる自殺対策について、私が個人的に感じたことを語ろうと思う。
その大綱には、要するに
子供の悩みに寄り添い、子供の出すSOSに気づくことのできる体制づくりを進めるべし
みたいな、当たり前のことが当たり前に書いてあった。
当たり前のことなので、これはこれで正しいとは思う。
だけど、私個人は、自殺問題の本質は、もっと多角的だと思うので、もっと踏み込んで考えてもいいのにな、と思った。
この大綱の文言の根底にあるのは、
「死にたいと思う子供を、死にたくなくなるようにしないといけない」
という考え方だろう。
それは、正しいし当然なんだけども、
その対策をやってきても、あまり効果ないから、今の日本の自殺率なんでしょう?
なら一度、騙されたと思って、
コペルニクス的に発想をし直してみたら良いのにと思う。すなわち、
「死にたい気持ちを持ちながらでも、生き続けていいんだよ。死にたいままで生きる生き方を、一緒に考えようよ。」って言ってみる
という考え方だ。
死にたくなることくらい、誰にでもあるじゃん。
普通じゃね?
現に、私は毎日死にたいと思いながらも、ちゃんと30年以上も生きてるもん
「死にたいと思うことは、別に異常ではないし、病的でもないし、タブーでもないんだよ。
そんなの息をするくらい普通じゃん?
だから、呼吸するのと同じように、楽な呼吸方法について、一緒に模索していこう?
アナタは異常でも病的でもない、普通の子なんだから。」
って言える大人がいる社会、
死にたい子供を、矯正すべきだと「線引き」しない社会。
その寄り添い方が、公の場でもできるだろうか?
大人こそ、大人でも抱えてる弱みを、ちゃんと子供に見せる。
大人が、弱くても、死にたくても、それでも生きてる姿を、どこも虚飾せずに、
ちゃんと子供に「等身大で」見せる。
その覚悟が持てるのか?
これこそが、本当の自殺対策なのではないか?
などと、考えた