『パパ活の社会学』


センセーショナルなタイトルにおっ?となり、読んでみた。


私はパパ活をしたことがないし、周りにしてる子もいないんだけど、女性が社会を生きる上では、男性の女性に対する考え方を知らなければならない、と感じることが多いので、パパ活の利用者である男性目線について何か知識が得られたら良いかな〜と思い、手に取ってみた。


この本は、ほとんどがパパ活をしている女の子や、パパ側の男性へのインタビューから構成されており、彼女ら彼らの生の声を通して、一般に流布しているパパ活のイメージの否定、イメージの刷新が主な内容となっている。


「社会学」と銘うっているほどには、社会学的考察自体が浅いと思ったのと、文章の端々に、女性を軽視しているような記述がさらっと混ぜ込まれている感じが拭えないため、興味深い内容ではあったが、あまりしっくりとはこない読書体験であった。


一番違和感を感じた箇所は、


「法的な立場が違うだけで、(パパ活女性とソープランド女性は)やってること自体はそう変わりない。さらに言えば、彼氏からプレゼントをもらってる女性、夫から生活費を貰っている専業主婦の女性も「対価を伴う交際」だと考えれば、売春とそうでないものの違いは限りなく曖昧になる」

とかいう記述。


この記述、なんか違和感を感じた女性は私だけではないのでは?と思う。


男性筆者でないと、こんなことは書かないと、私は思った。


専業主婦について、男性はそんなふうに考えているんだ〜

会社で働いてお金を稼いでくるだけが生産ではない。

夫が考えている以上に、妻は夫が知らないところで無形の労働を強いられている。

家事の内容も、夫が把握していないことが膨大にあり、さらに、それらができていないと「あそこの奥さんは」などと汚名を着せられたり、姑に嫌味を言われたりするリスク

昼間家にいない夫は気づかないレベルで、子供や親戚の感情をキャッチしては気を使って整えてあげ、夫が会社から帰ってきた時に安らげる家庭を守るために感情労働を強いられている…

そんなにも苦労してまで家庭を整えているのは、夫と対等なパートナーだと誇りを持っているから。

だから、会社という名の戦場で働く夫と同じように、家庭という戦場に負けないで頑張っているんだ‼️と思う。

(私は専業主婦ではないから、想像だけれど)


時に、世の男たちよ、このような専業主婦が「売春婦」なのですか?


…………ショボーン


なんだか私、悲しくなったよ。


それだけ人生や愛を尽くしてもパートナーから「お金を稼がないから売春婦」と思われる「妻」なんかになりたくない…

そのような女性のリスク回避が、「パパ活」を生み出す潜在的意識下にあるのかもしれない…と思った。

この本の中ではそんなこと言及されてないんだけどね(そこが男性筆者の盲点だからこそ、この記述なんだろうけど)


父なる存在が不在の社会だから、パパ活でパパになろうとする男子

みたいな観点は鋭いと思うので、ここをもっと掘り下げてくれたら社会学らしくなっていたんじゃないかと思う。




「全ての人にパパ活が必要な社会に我々は生きている」という結びには、悪いけど、私は意義を申し立てたい。


少なくとも私は、

「パパ活が必要だと思う精神構造から離れたところで生きたい」と願うからだ。


専業主婦を売春にサラッとなぞらえてることからも分かるように、

パパ活が必要だと思ってる男は、

女性のことを、体を差し出すことでしか男性に奉仕できない存在だって、心のどこかで思ってるんだろ?


そんなていたらくだから、おまえは

お金を出すことでしか「パパ」になれないんだよ。


そこじゃないんだよ、

パパになるためには、そんな消費者サイドを気取ってるばかりじゃダメなんだよ。

もっと世界の労働は、お金で売買できない部分で成り立っているよ。

「ママという名の「ボランティア」を終始強制されている存在」が抱えているお金にならない労働を認識すること、

そしてそのボランティアは誰のためにあるのか(こちらとしてはまことに遺憾ながら、おまえのためなんだよ‼️)まず、ちゃんと受け止めること。

それが、「真のパパ」への道ではないか?


そこから目を逸らしてるうちは、パパではない。


金でパパの立場を買ってるだけの

「おまえのママの息子」に過ぎないのではないだろうか?


そもそも、

性的関係を持つ可能性のある男性に対して「パパ(父)」という呼称を用いていることにかなり抵抗がある。(パパと娘は、通常は性的関係ではない。)

そんな「パパ」なんぞは本当にキモいのでパパ活に払う金があったらパイプカットした方がいいと思う。


そんな気持ち悪いものに「パパ活が必要な社会だ」などと、万人を巻き込むのは、マジでよしてほしいものだ魂が抜ける


そんなグロテスクで倒錯的なものを「パパ」と呼ぶ精神が、今まさに現在進行形で父が不在な社会の「父殺し」をはたらいているのかもしれない。