前回の①の記事で、なぜ人は死にたいと思うのかについて、私の経験から推察してみた。


もちろん、理由は人それぞれであり、「これが全ての原因だ」ということはできないだろう。


それは分かっているけども、やはり

「自分は代わりがいくらでもいる代替可能な存在だ」

と考えるのと

「世界に自分は自分だけだから貴重なものだ」

と考えるのとでは、自分の命に感じる重みが変わってくるというのは、確実にあると思う。


しかし現在、教育現場では、子どもたちを前者の存在のように扱っていると思う。

つまり、

子どもたちを「計測可能な記号」に置き換えている。

同じ制服を同じスカート丈で着せ、同じ髪型をさせるように校則で縛りつけ、個性を平準化する。


教室で、毎日何時間も、同じ時間に同じことをして同じものを見て同じ考えを持つように「教育」もとい「洗脳」される。


例えば、小説を読めば、百人いたら百通りの感想や捉え方があるはずなのに、なぜか現国にまで「テスト」があり、そこから受け取る「べき」感想を選ばさせられるなどという頭のおかしい茶番が当たり前にまかり通る。


こんな生活を何年も強制されれば、子どもたちは

「私の個性など求められてはいないんだ」

という感覚に陥るのは必然ではないだろうか。


そして、

「私の他にも数学テスト70点を取った生徒が10人いるなら、その人たちと能力が同じ自分がわざわざ存在する必要はないかもしれない」

という、子どもに一番持って欲しくないはずの「自分は代替可能な存在だ」という考えに至るのは、ごくごくあり得る話ではないだろうか?


大人が強制する意味不明な教育が、子どもたちを死に追いやっている。

本当に弱いヤツは、そんな教育しか子供に施せない大人自身なのに、

弱いのは子どもだとでも言うかのごとく、「子供が自死を選ばないように」などと上から目線で手を差し伸べる格好をするのか…?


矛盾ではないのか?

マッチポンプではないか?

欺瞞だと言われても仕方ないのではないか?


こんな世の中では、子どもに見限られてしまうのも仕方ないではないか?


子どもの自死対策をしたいのなら、まずは

大人が、「本当は子どもたちにただ健やかに、いつも自分らしくいてほしいのだ」

という本音の本音を変に屈折させることなく対等な立場で素直に示し、


子ども一人一人の存在を尊重する心を持って、今一度「教育」というものを根本から見直すことから始めないといけない、と思う。