フランス語は、英語に比べて動詞やら形容詞やらの活用が複雑すぎる。
例えばbe動詞にあたるetreからして
(※アクサンの付け方分からなかったので抜いています、ごめんなさい🙇♀️)
私が主語のとき suis
君が主語のとき es
彼ら彼女らが主語のとき est
私たちが主語のとき sommes
貴方が主語のとき etes
彼ら彼女らが主語のとき sont
という、
もはや原型(etre)留めてないやんけお前⁉️
レベルの謎活用となっている。
全ての動詞がこのように主語によって変化し、いくつか活用の法則性が見られるものの、そのパターンが多すぎて頭を抱えたくなってくる。
日本語にはない概念のため、この点に苦しむ学習者が多いらしく、フランス語のテストの時に教室には常に誰かの押し殺したうめき声が聞こえてくるwww
(しかしのちにラテン語習った際に、フランス語はまだマシだったと思い知るとなった)
なんでこんな複雑なことをわざわざするのだろう?
言葉とはただ意志を伝達するものであるはず。
動詞を主語ごとに変えることの意味について考えたとき、ハタと思い至った。
言語体系とは、思想体系である。
「存在」を示すbe動詞
うまく言えないんだが、この
主語によってbe動詞を変えて伝える
っていう行動の奥には、目に見えない「自由」がある、と感じるんだ。
まるで、
私の視点は私の視点
キミの視点はキミの視点
彼、彼女の視点は彼、彼女の視点
私たちの視点は私たちの視点
貴方の視点は貴方の視点
彼ら彼女らの視点は彼ら彼女らの視点
全て別物なのは当然
そう言っているように感じられる。
そして、それはフランス人の思考の中に無意識レベルの深い階層に刻まれた、この世の最も真実に近い発見の一つなのかもしれない。
フランスが優れた哲学者や数学者や天文学者を生み出す背景には、こうした言語体系が示す実存主義が深く根付いていた…???のかもしれない。
私je
と
私たちnous
でも動詞は全く違う、という概念。
おそらく日本語から一番遠いが、大事な点だと思った。
個人としての私と
集団の中の私が
当然のように「別物」と認識されること。
これには、例えば
午後だけ有給休暇もらってお昼に会社から街へ解放された時
みたいな、腹の底からの清々しい自由さがある。
無意識下のテレパスに頼る日本語に、和合のうちに結着した共通意識という深い真理が垣間見えるように、
フランス語は、喋るだけで知らず知らずに「自由」の概念を精神に構築していくのだ、と思った。
外国語から学ぶことができる事柄は、本当に興味深いことばかりだなあ
と改めて思った、という話でした〜✨