幾原監督作品は、一度観て「?」2度観ても「?」3度観ても「?」

十年越しに劇場版観た時ですら「?」

で、簡単に解き明かすことのできない神秘があると思う。


たぶん、林檎やらペンギンやらのたくさんの象徴的なモチーフが散りばめられすぎてて、下敷きにしてるのが歴史的な大事件だったり、児童虐待がぬるっと日常化して描かれてたりするシュールさにまず気を取られてしまうからだと思う。


でも、少なくとも私がこの作品から一番に受け取ったことは、突き詰めれば、

「「本当の愛情」とは何か」を監督は伝えたかったのかな?と思っている。


真の愛とは何なのかを磨き出すために、愛と一見見分けのつかない共依存や強迫観念が、何度も何度も、バッハの変奏曲のテーマみたいに、微妙に形を変えて、執拗に描かれてて、

その中で、登場人物たちは、何度も何度も間違いながらも、自分の中の「真の愛」を最後には磨き出して見せたんだ、と思った。


その真の愛の在り方は、登場人物それぞれに形が違うものだったけど、ちゃんと視聴者の心には、それが真実なんだと納得できる形で届いた。




通常、社会生活上、人はみんなロールプレイをしている。



例えば、「恋人同士なら普通はこう振る舞うべき」みたいな規範があって、記念日を祝うとか、ダイヤの指輪を贈るとか、そうした「常識」という名の儀式をこなしていくことが、正しい愛情の示し方だ、みたいな風潮がある。


でも、幾原監督は、その形式主義に疑問を持ってたのでは❓と思った。


そりゃ、入れ物があるから中身が入るのは、事実


でも、いつしか人は、入れ物に入れる行為自体に気を取られて、入れ物に入れた内容物が本当の愛情かどうかについて、あまり考えなくなる。


もしかしたら、中身が本物かどうかを問われることが怖いから、とりあえず何かと理由をつけては入れ物に入れ物入れる儀式の繰り返しを、人は辞めないのかもしれない。


宮沢賢治が天上で描いた愛は、そんな入れ物一切関係ない、立場も役割も関係ない、ロールプレイ一切抜きの、単純に、純粋な人と人との真の愛の物語だよ。それを忘れてはダメだよ、と幾原監督は言ってるような気がした。


主人公たちの父母は、「入れ物」の欺瞞は見抜いていたけど、入れ物を破壊することで解決しようとする、間違った方法を選んでしまった。


反転世界に囚われたりんご姫は、「家族」という「入れ物」を保つために、運命日記の預言を形骸的にこなすことに夢中になり、心はいつも置いてけぼりにしてしまう…


水をやらないと枯れる花みたいに、

本当の愛を得る唯一の希望を絶えず頭に被せてあげてないと、何度でも何度でも死んでしまう陽毬ちゃん


本当の愛に出会うことができるかどうかの賭けとは、本来はこんなにまで深刻であるべきハムレット命題で、

一世一代の大博打で、

それこそ命に関わる大事なはずなのだ。





問題を投げかけっぱなしにした親世代


でも、その子供世代であるかんちゃん、しょうちゃん、ひまりちゃん、真砂子たちは、

「入れ物があるからダメなのではなく、入れ物に何を入れるかを吟味しないで偽物を入れてしまうことが、人の心に黒うさぎを呼び込む本当の悪なんだ」

とちゃんと気づいて、何度打ちのめされ、犠牲になっても、本当に贈り物箱に入れるにふさわしい本物の愛に辿り着けたんだと思う。


箱から出てきて解凍されたペンギンたちは、主人公たちの社会的役割という箱(ロール)から出され生まれたままの子供みたいな純粋な気持ちをそのまま表してくれる。

どんなに彼らが表面的に喧嘩してても、そのペンギンは相手のペンギンを否定してたりなんかしないんだよなーって常に確信できる。


入れるべき器がないままに、剥き出しの愛情を差し出すのは、とても勇気がいることだ。

そんなの相手はいらないかもしれないと、何度もゴミ箱に捨ててしまう手編みマフラーだ。

でも、それでも差し出す勇気を持てば、きっとカエル君は世界を救えるんだな〜


誰にも見られていなくても、王子様になれたカエル君たちの物語は、空の中の隠れたアーカイブには、ちゃんと刻まれてるんだよ。


その確信を持てることが、

きっと何者にでも「なれる」

ということなのだ。





プレゼントが溢れるこのシーズンに、この名作アニメのことをふと思い出した。


今日は、なんかファビュラスなお茶でも入れてクリスマス楽しむぞ〜🎅