「宗教心を取り戻す」

先日、14世ダライ・ラマ法王の講演会に参加しましたが、
その時の主催者の挨拶にて、
「宗教心のない教育は、賢いガキを育てるだけである」とおっしゃっていましたが、
講演よりも何よりも、このことが大きく私の心に響き、
印象に残りました。
それは、私も同じように感じていたからです。

戦後教育は、復興と称して経済最優先の教育が行われ、
如何にいい点数を獲得するかを競争して、この発展に寄与したり、
資産財産を増やし、地位や名誉を高めるかが成功者であるとして教育が行われました。
そこには、人としての大事な思いやりや命を尊ぶ教育、
親を先祖を敬うことが、家庭は基より学校教育でも失われたようです。

これにより、今の子ども達は学校以外でも習い事や塾と、
もしかすると、親よりも忙しい時間を過ごしているのではと思ったりもします。
主催者は、このような社会、そして、子ども達の未来を憂って、
このようにおっしゃったと思いましたが、
私も、本当に心から憂慮しています。

親が子どもを、子どもが親を、
あるいは、通りがかりの人を平気で傷つけたり殺したりする社会は、
もう異常の何者でもありません。
しかし、このことに対して、国も学校も親も、具体的行動は何もありません。

対策といえば、このような行動を防止する対策と称して、
凶器の規制や監視を厳しくしたりの対症療法のみです。
根本的解決策は何も見えてきません。
つまり、人の心の教育はどのようにするのかが、全く議論されません。
私はここから見直し、長期的見通しを立てて、
これを行わないと何も変わらないと思います。

私が考える教育の目的とは、
今のような知識を詰め込む記憶力教育ではなく、
まずは、なぜ学ぶのか、その学びは何のためか、
そして、その学びを社会に人々にどのように生かすのか役立てるのかを、
はっきり最初に教えて、そして、それを応用できる学習能力を高めることこそが、
本当の教育ではと思います。

教育により、人が創られ育てられ、国も造られます。
しかし、一朝一夕にてこれを変えたり望むことも出来ません。
敗戦後のGHQが制定した憲法にて、
戦争放棄を始めとする戦わない、主張しない、従順に行動するなどは、
良い意味で植え付けられましたが、
しかし、この宗教心までをも骨抜きにされたのではと思います。

人として、先祖や親を敬ったり、他者への思いやり、
慈しみの心、物を大切にする心などを、
ここに来て大きく見直し、
これを家庭で学校で、親が先生が一人の大人として社会人として、
皆で接することで、教え学ぶことが必要なようです。

むしろ、いい点数を獲得することよりも、知能指数のIQよりも、
慈悲の心やEQのほうが今、大きく求められているようです。

今日も一日、慈悲の心が優先した日を過ごせますように。
御蔭様で、ありがとうございました。