こんばんはナカジーです。
先週月曜日のブログで「長篠の戦い」に触れましたが、今日はその続きです。
先週のブログ→https://ameblo.jp/gotoconblog/entry-12569458456.html
百名城の長篠城址から車で10分程走ると、長篠の戦いの資料館や戦死者の霊を弔った「信玄塚」、武田軍の騎馬隊を”鉄砲”で狙った有名な「馬防柵」などの戦いの痕跡があります。(長篠城址は電車で行けますが、ここは車でないと無理です。)
最近でも鉄砲の弾がこのように見つかるみたいです。
ボクは学生の頃から”武田氏は長篠の戦いで大敗し、武田勝頼も討死にして滅亡した”と思っていたんですが、全然違いました。
長篠の戦いは1575年で武田氏滅亡は1582年です。
長篠の戦いに敗れた武田勝頼は確かに戦力ダウンを余儀なくされました。しかしそれが直接武田氏滅亡になったわけではなく、パワーバランスが崩れて、今までどおりの隣国との関係性を維持することが難しくなってゆきます。
そこで勝頼は決定的なミスを犯します。
徳川家康の領地(かつては武田氏の領地でした)の「高天神城」(静岡県掛川市)で孤軍奮闘していた自分の配下が家康に攻められます。
”さあ部下を助けよう”
と行動するのが当たり前ですが、勝頼は織田信長を警戒する余り(ビビッて)、高天神城の1000人近くを見殺しにしてしまいました。
これを見た家来衆はドン引き!
求心力は急速に低下してゆきました。(そりゃそうだよねー。みなさんは部下や後輩を見捨ててませんよね?)
さらに追い打ちをかけるように勝頼は天にも見離されます。
”浅間山の大噴火”です。
当時東国ではこれは不吉な前兆とされていて、勝頼の家来たちは「武田家はもう終わりだー」と言って逃げ出していきました。。
当然勢力を失った武田氏は簡単に滅ぼされてしまったわけなんです。
長篠の戦いから7年後のことでした。
現代社会における会社も組織も浮き沈みは色々あると思いますが、そんな時こそ真価が問われますよね。
お客様・協力会社・社員に対し、真心を持ってたえず誠実に相対しているか、そんなことを考えさせられます。
ちなみに武田氏滅亡が1582年3月で、長篠の戦いの勝者の織田信長はそれから僅か3ヶ月後に本能寺の変で亡くなり、そしてさらに10日後には本能寺の変の首謀者の明智光秀も討ち死にします。
1582年は歴史の大きな転換期となったわけですが、それは現代でもいや現代こそ頻繁に起こりうることと理解しています。
歴史は面白いし、歴史から学ぶことは大いにありますね。
be happy all of the world