仏教日記(42)11月8日(火)のこと
亡き母の祥月命日でした.お坊さんは呼ばず、私、自称僧侶が
導師役をつとめました(つとめの漢字がどれかわからない学力のなさ!).
その低学力の私めが、その際一番困ったのが言上の文言であった.
ご戒壇の前でどういう言上をするのか、いつもはポケーとお坊さまの
「むにゃむにゃ語」を聞いていただけなのでわからない.
またそういう言上講座も、ネットではみあたらない.
仕方がないので、こちらの世界の普通のはなし言葉で言上した.
「御宝前様、本日は亡き母、山田絹代祥月命日でございます.
我ら身内一同、ここに追善供養の法事をさせていただきます.
哀愍摂受」
「哀愍摂受 」という言葉を調べてみた.山伏の祈祷文だった.
まあいいか.心は、きょうのためにそのくらい厳しい修行にも
耐える覚悟で臨んでいる.
別のページも見に行ったが、「哀愍摂受 」の中に乞い願う
という意味があるから「請い願わくば哀愍摂受」はおかしな
表現になるようだ.なので、最後は単独で、「哀愍摂受 」と
言上ししめくくりました.
あちこちのホームページを駆け回っていたら
欲望を断って(私は10月中旬から、まだ3週間だけでしたが)
修行すると、神仏の意にかなうものなら心願成就するという
検索で見つけたページにとてもためになるブログがありました.
ちょっとだけ無断でこぴぺ(ごめんなさい):
このように誠をつくして祈りを求める人は世のなかに大勢いる。 たとえば寒中に水垢離(みずごり)する人、断食(だんじき)す る人、あるいは自分の好みの食物を断つ人(茶断ち等)、あるいは 遠い道を苦労して歩く人(四国八十八カ所めぐり等)、あるいは財 産を喜捨(きしゃ)して願をかける人々などがそうだな。 こういった人たちは、たとえ市井のなかの一庶民であっても、心 が誠そのものであるがゆえに、神仏のご加護により所願成就もあな がち至難でない、とされている。とのことですから、3週間欲望を断った私の導師役はちょっとは
役立ったかもしれない.
さて、この欲望を断った3週間でいろいろな体験をしました.
まず自分が鏡のようになることを感じました.
戯れにも友人が罵倒する表現でこちらに話しかけてきたときも、
いつもなら、心底憤慨して徹底的に(あやまるまで)論戦するところ
何と心穏やかに感じた:「ああ、この人の心の中は、こういう風なのだ」
「ああ、なるほど…先師上人のおっしゃっていたことが理解できる、
人は言うところのものだ」「ブッダのことばにあった、それを私が
受け取らなければ、その食事は誰のものですか?提供した人のもの
でしょ.その人に帰っていきます.ののしり言葉も、受け取らなければ
吐いた人に返っていく…」
こう思った時、逆にその友人が心配になった.この人、その罪咎で
地獄に行くなら、私はどうしよう.友ならばついて行くし、
ついて行くのがいやなら、この友とは疎遠になろう!
「真理のことば・感興のことば」などにも友は選べ、と繰り返し出てきます.
なぜなのかについても説かれています.
つき合えば、人はその付き合っている人のようになるからだ.
つき合う、とはそういうことなのだそうだ、と.
よく考えなさい、ということですね.