仏教日記(38)
 
 
法華経提婆達多品の八歳の竜女の話をしましょう.

 

 

その竜女は値三千大世界の宝珠を持っていて、
それを仏に上(たてまつ)って、仏が受け取ると、

 

いならぶ尊者たちに言った.

 

「あんたら、見てたやろ?うち、あっという間に成仏
できるからな.見とってや.」

 

そう言って、本当に成仏した話.

 

これは竜女に限らず、私たちが成仏、つまり、
仏道修行も最終的には、自分がこの世、この俗世間で
自分の持っている最高のもの(最愛のもの)を奉納
しなければだめだ、ということです.

 

無上の喜びは2種類あって、1つがこの世での無上のよろこび、
例えば、酒飲みなら、酒.
それが値三千大世界の宝珠に相当すると思います.

 

つまり、それを差し出せ、というわけです.
自分の命より大切な「酒」を差し出すのです.
「酒」があれば死んでもいい、という人から
「酒」を取り上げるのです.
ちょっと残酷のような気もしますが…

 

女好きの人なら、「女」(という魅力的な観念の世界の女すべて)
を差し出す.「女」のためなら穴の毛を全部抜かれても構わない人
から「女」をとったら、それはもう生ける屍になることでしょう…

 

海ゆかば、みずく屍…そう、命を差し出す、そうして初めて
無上道を得るのだと思います.

 

無上道のことは私自身が未だ達成したことのない世界の話
ですから想像だけでお話します.

 

この世の最高の幸せ、胸が震える喜び、感動は、「動的なもの」
で、無上道を得た喜びは寂滅の世界の喜びで「静的なもの」
だと思います.

 

成仏する、ということは「動」を「静」に変えるということ
だと思います.

 

法華経は「寿量品」が肝心要だと教わってきましたが、
どうも、そうではない.むしろこの宝珠奉納の段ではないかと
思われるのです.
 寿量品、それは釈迦が歴史上の人物ではなく、過去から無量
の寿命をもっていて、仏道教示のため、この世に、2500年前
に仮の姿をもって現れたというのですが、こうしたことは、
大乗経典の至る所に説かれていることですから、重要なポイン
トではないと考えます.過去の地点がさらに大過去になった
というだけのことで、目新しいことではありません.
 
しかし、8歳の竜女が値(あたい)三千大世界の宝玉を献上した
ことは、私たちにとって、ビッグニュースになります.
 
これは何も竜に変装したスパイ女が、日本を売り飛ばした、と
いうことではなく、自分の治める何とか帝国をプレゼントした
わけでもなく、ただ自分の意識の中の最高と思えるものを
「これに私はもう欲望を燃やしません」と言って仏さまに
献上したということだと思います.
 
自分の持っているもので、値三千大世界の宝玉、つまり、
自分の命以上に愛しいものを惜しげもなく差し出したという
この点がすごいニュースになっているのです.
 
仏道に入るときは、あまり深く考えず、趣味か何かの
延長線上でとらえて入門する、というのが一般的かと
思うのですが、この「法華経」に関しては、そうは
簡単なものではない.「不惜身命」で取りかかるべき
仏道であり、さらにその命よりも大切なものも差し出す
覚悟で臨むものだと言っています.
 
それほど仏道は素晴らしいものだ、といっています.
 
しかし凡夫の我々には「成仏」や「成道」したあとの
素晴らしさがわかりません.ですから命や命以上の
大切なものを差し出す、という気がしれないのです.
 
ではどうして命を捨てられますか?
命よりも大切なものを差し出せますか?
 
それはもう信じるしかない.
「きっと、この幸せよりも、もっと素晴らしい幸せがある」

「それが仏の世界だ」

そう信じて、「酒」も「女(女性の場合は男)」も「お金」も

「地位」もこういう不安定な幸せではなく、

永遠の幸せを!

 

それが「法華経」の説く浄土のようです.