仏教日記(31)

 

先日の悪魔が意気消沈して脇から落として行ったもの

は、食べ物のビワか、楽器の琵琶かがわからなかった

としていましたが、「楽器」だとするブログを見つけ

ました.かなり専門的と思われるので、まず間違い

ないでしょう.

 

ところでこのブログでこういうのが書かれていました.

 

○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

 

というものです.

 

これ、前半は誰でも納得がいくものですが、後半はどうでしょう.

みなさん、素直に受け入れられますか?

 

「わたしの嫌いな人々」には不幸になってほしいと思わないでしょうか?

 

しかし、たしかにブッダは生きとし生けるものはみな幸福であれ、

と仰せでした.

 

さらに仏法の要である因果律に照らし合わせてみましても。

こういうことがいえると思います.つまり、

 

私の嫌いな人、というのは過去世で、あなたが好きだった人かもしれない.

その人に無視されたので、今生、「好き」が「嫌い」に転じたのかも

知れない.あるいは、前世でその人に意地悪をされていたのかもしれない.

 

そうだとすると「嫌いな気持ち」を持ち続けるというのは、

「怨みを恨みで返す」ということになりますので、ぜひ避けたい

ところです.

 

そして「怨みを恨みで返す」ことがなければ、この人たちも

生きとし生けるものの中ですから、「幸福であれ」

ということになります.

 

したがって、後半も、そのまま受け入れるのが

正しいということになります.

 

さあ、きょうから私たちには「不幸になってほしい人」はいなくなりました.

全ての人に幸福を願いましょう.

 

 

ウクライナ人を殺して平気なロシアの大統領は「不幸になれ」「さっさと死ね」

と思うのは普通の自然な感情だとは思いますが、一歩進んで、「幸福になれ」

と思ってみましょう.

 

今のままではプーチンさんは因果律(善因善果、悪因悪果)により、

先は真っ暗です.気の毒なことです.彼に幸福を願うということは

「プーチンさん、善因善果、悪因悪果をわきまえて、早く平和を

返してあげて下さい」

こう願いましょう.

 

あの言葉を唱えると幸福になれる、と書かれているのですが、

ひとつだけ、註釈させていただきます.

 

この「幸福」というのは、世俗人の私たちの願う幸福からすこし

ずれているので、ご参考になさってください.

 

この幸福は「苦」からの脱却を指すので後に「苦」

となる「幸福」はありません.

たとえば

 

①自分が幸福になると、だれかが不幸になる.

 これは不幸になる種です.(明日は我が身)

②競馬で大穴を当てて、大金が転がり込む.

 穴に大金が入っているなら、毒蛇が入っていることもある.

 次に出てくるのはそれかも.

③カンニングがばれずに〇〇大学に入れた.

 味を占めて卒業試験で不正がばれて1年留年とかの

 憂き目が待っているかも.

 

この幸福は「正義」に基づいたもののはずです.

あなたや私の思う幸福の形ではありません.

 

何?つまらないですって?

いいえ、本当に、いやな人に出会わない境地を作ったら

素晴らしいと思うようになるでしょう、きっと.