11月1日 (金)
【リッチェルさんご一家、京都観光3日目】
【幸遊庵。午前10時】
ツアー開始時刻は、10時30分に変更になりました。
きょうの日程は、
幸遊庵 ~ 二条城 ~
京都ハンディクラフトセンター ~ 三十三間堂
~ 高島屋 ~ 幸遊庵
【幸遊庵を出発】
幸遊庵は、祗園甲部にあります。
甲部歌舞練場の東、安井金比羅さんの西。
安井金比羅さんは、縁切りの神でして、
自主神社の縁結びの神様と、セットで、
お参りすれば、とても便利。
幸遊庵から西へ。建仁寺で、右。
ここから祗園、花見小路が続きます。
四条通を西へ。堀川通で、北。
二条城は、この堀川通を北に1キロほど
行った西側。
リッチェ
ルさん : Lert's begin by Nijo Castle.
きょうは、二条城を先に
行きましょうね。
山田 : Yes, let's.
行きましょう。
関ヶ原の合戦後、徳川家康は、
天下を示すため、京都に城を構えます。
おそらく、大阪城を攻めるための、
軍事拠点だったのでしょう。
実際に、この二条城で、攻略を練って、
1614年と1615年の二度の陣で、
大阪城を攻め滅ぼしました。
大阪城が無くなれば、天下は安泰とばかり、
その翌年、徳川家康は永眠します。
1616年に亡くなったのですが、
覚え方は、いろいろ(1616)
やってから亡くなった、
と覚えます。
イギリスでは、この年、
シェークスピアが亡くなりました。
ついでに言えば、
家康が征夷大将軍に就任した年に、
エリザベス1世が亡くなりました。
さて、二条城ですが、
1603年2月の征夷大将軍就任後、
すぐの3月21日、
出来たばかりの、二条城に入り、
25日、拝賀の礼を行いました。
ヾ(@°▽°@)ノ
家康没後10年、すなわち、
1626年、新たな殿舎を造営。
その片隅に、伏見城を
移築し、天守閣を建てたのだとか。
(ただし、あそこは、
そんなに大きな場所ではない。
五層だったと言うけれど、無理。)
あの狭い場所に
五層の天守を実際に建てたのだとすると、
めっちゃ、たて長の、塔のような、
不安定なお城でっせ。そら、あんた、すぐ
落雷を受けて、焼失しても、おかしくない。
台風で、壊れてもおかしくない。
地震で、潰れても当然かもしれない。
家康なら、そんな、ひょろひょろの天守は
作らなかっただろうぜ。
ヾ(@^▽^@)ノ
家康 : ほんまに。わしの子孫は、
あほたればっかしじゃの。
あんなモン作りやがって。
秀吉 : わははは。わしが人間界にもどって
作って来てやろうか?
家康 : あんた、もう、堪忍して。
わしとこは、もう城はいらんわ。
秀吉 : あんた、いらんのは、ええけど、
わしがせっかく作った大阪城、壊しやがって、
ほんまに、もう、この馬鹿たれが、こら。
罪滅ぼしに、わしの肩もめや。
と、いうような会話が天国で交わされたかどうかは、
さだかではないが、
その1626年は、
二の丸にあったとされる天守が、
淀城に移築されたという年です。
では、二の丸がなくなった二条城は、
ひょろひょろ本丸だけの、
安っぽい城になりさがった
のでしょうか?
実は、このころ、
後水尾天皇を招こうという運動があったらしい。
その行幸のための、御殿が造られる予定だった。
行幸御殿は、
今の二の丸庭園に出来ていた。
その行幸御殿は、誰が造ったのか?
誰あろう、小堀遠州、この人である。
造営奉行に任じられた小堀は、
さぞ、腹が立ったことであろう。
せっかく、造り上げた庭園は、
行幸御殿とマッチするよう、もう一度、
造営し直しとなったからである。
\(゜□゜)/
小堀遠州 : ばかたれが・・・
わしがせっかく作った庭園だというのに...
配下の者 : お奉行、まあ、そういわずに、
後水尾天皇の行幸は、徳川家にとって、
天下に
威厳を示せる一大事のことでござりますぞ。
小堀遠州 : ほな、お前に任せるし。
わしは、もう、きょうは、
ふてくされて、家帰って
お茶飲んで、ふて寝するわ。
【京都ハンディクラフトセンター】
山田の口の中は、
虫歯で、何本も、歯が抜けた寂しい口の中なのですが、
そのように、
ここ、ハンディクラフトセンターは、
地震以降、店舗が減り、
歯抜け状態になっております。
たとえば、ゴタの口の中が、
ブリッジという、偽物の歯が並んでいるように、
偽物でいいから、空虚になったビルを、
模擬店でいいから、店舗でうめ尽くしてほしい。
さて、東館は、3階と4階だけが店舗です。
4階は、さらに、真ん中が抜けて、北側店舗
と、南側店舗に分かれています。
(経営者は、別べつ)
【昼食】
お昼は、岡崎の「うどん屋」に入りました。
何度か、お客さんを連れてきていますので、
お店の方は、我々を奥座敷に案内してくださいます。
落ち着くので、いいお店だと思います。
【三十三間堂】
山田 : The Sanjusangen-do was founded in 1164
at the demand of the Emperor
Goshirakawa.
The literal meaning of Sanjusangen-do
is Hall of thirty-three bays.
The bay means the space between pillars
not the bay where boats are
at anchor.
三十三間堂は、1164年、
後白河法皇の勅命で、造営されました。
三十三間堂というのは、柱間が、
33ある、お堂という意味なのです。
(以下、日本語訳不可)
みなさん : Splendid !
見事だなあ。
山田 : Offering Buddha a compliment
gives back virtue to you.
仏さまをほめるのは、
徳となって、返ってきますのやで。
みなさん : Are these all Buddha ?
これって、みんな、仏様なの?
山田 : Almost Buddha.
They are on the way to become Buddha.
They are now training
to gain enlightenment.
Their training theme is
to give mercy others.
ほとんど、仏様です。
修行してはりますのや。
慈悲を施す修行をして、
悟りを得ますと、仏様になります。
みなさん : Mercy to others ?
その慈悲は、他人に施されるの?
山田 : For us, I mean.
私たちにって、ことだよ。
中尊は、千手観音座像です。1254年、湛慶により、完成。
その数年前の1249年、三十三間堂は、火事で、焼失。
このとき、156体の観音像と、28部衆が救出されました。
1266年、三十三間堂の落慶法要が営まれました。
【高島屋】
京都の高島屋は、四条河原町という市街地の中心に位置します。
なので、車を待機させる場所が難しい。
我々の車は、ジャンボタクシーのサイズなので、一般駐車場には、
駐車が難しいのです。
そこで、一旦、高島屋で、みなさんを下車させ、
みなさんだけで、高島屋に行ってもらいます。
山田は、車のお守をします。
ねんねんころりよ~
高島屋でのお買い物は、延々、1時間半に及びました。
山田、同一場所での駐車は、15分が限界と思い、
10分ごとに、移動。
はじめ、初め、柳馬場に15分。次の15分間は、富小路。
それから、麩屋町に、15分待機。
そして、御幸町で、15分。そして寺町京極で、また15分。
それでも、お戻りになりません。
もう、これで、戻ってこなければ、電話を入れて、
「ぐるりと、河原町~御池~烏丸~四条
と一周してくるから、あと30分ゆっくりせよ。」
と言うつもりだったが、
新京極に移動したところで、お戻りになりました。
このあと、「幸游館」 に戻り、本日の業務は、終了。
おしまい
山田 錦
【リッチェルさんご一家、京都観光3日目】
【幸遊庵。午前10時】
ツアー開始時刻は、10時30分に変更になりました。
きょうの日程は、
幸遊庵 ~ 二条城 ~
京都ハンディクラフトセンター ~ 三十三間堂
~ 高島屋 ~ 幸遊庵
【幸遊庵を出発】
幸遊庵は、祗園甲部にあります。
甲部歌舞練場の東、安井金比羅さんの西。
安井金比羅さんは、縁切りの神でして、
自主神社の縁結びの神様と、セットで、
お参りすれば、とても便利。
幸遊庵から西へ。建仁寺で、右。
ここから祗園、花見小路が続きます。
四条通を西へ。堀川通で、北。
二条城は、この堀川通を北に1キロほど
行った西側。
リッチェ
ルさん : Lert's begin by Nijo Castle.
きょうは、二条城を先に
行きましょうね。
山田 : Yes, let's.
行きましょう。
関ヶ原の合戦後、徳川家康は、
天下を示すため、京都に城を構えます。
おそらく、大阪城を攻めるための、
軍事拠点だったのでしょう。
実際に、この二条城で、攻略を練って、
1614年と1615年の二度の陣で、
大阪城を攻め滅ぼしました。
大阪城が無くなれば、天下は安泰とばかり、
その翌年、徳川家康は永眠します。
1616年に亡くなったのですが、
覚え方は、いろいろ(1616)
やってから亡くなった、
と覚えます。
イギリスでは、この年、
シェークスピアが亡くなりました。
ついでに言えば、
家康が征夷大将軍に就任した年に、
エリザベス1世が亡くなりました。
さて、二条城ですが、
1603年2月の征夷大将軍就任後、
すぐの3月21日、
出来たばかりの、二条城に入り、
25日、拝賀の礼を行いました。
ヾ(@°▽°@)ノ
家康没後10年、すなわち、
1626年、新たな殿舎を造営。
その片隅に、伏見城を
移築し、天守閣を建てたのだとか。
(ただし、あそこは、
そんなに大きな場所ではない。
五層だったと言うけれど、無理。)
あの狭い場所に
五層の天守を実際に建てたのだとすると、
めっちゃ、たて長の、塔のような、
不安定なお城でっせ。そら、あんた、すぐ
落雷を受けて、焼失しても、おかしくない。
台風で、壊れてもおかしくない。
地震で、潰れても当然かもしれない。
家康なら、そんな、ひょろひょろの天守は
作らなかっただろうぜ。
ヾ(@^▽^@)ノ
家康 : ほんまに。わしの子孫は、
あほたればっかしじゃの。
あんなモン作りやがって。
秀吉 : わははは。わしが人間界にもどって
作って来てやろうか?
家康 : あんた、もう、堪忍して。
わしとこは、もう城はいらんわ。
秀吉 : あんた、いらんのは、ええけど、
わしがせっかく作った大阪城、壊しやがって、
ほんまに、もう、この馬鹿たれが、こら。
罪滅ぼしに、わしの肩もめや。
と、いうような会話が天国で交わされたかどうかは、
さだかではないが、
その1626年は、
二の丸にあったとされる天守が、
淀城に移築されたという年です。
では、二の丸がなくなった二条城は、
ひょろひょろ本丸だけの、
安っぽい城になりさがった
のでしょうか?
実は、このころ、
後水尾天皇を招こうという運動があったらしい。
その行幸のための、御殿が造られる予定だった。
行幸御殿は、
今の二の丸庭園に出来ていた。
その行幸御殿は、誰が造ったのか?
誰あろう、小堀遠州、この人である。
造営奉行に任じられた小堀は、
さぞ、腹が立ったことであろう。
せっかく、造り上げた庭園は、
行幸御殿とマッチするよう、もう一度、
造営し直しとなったからである。
\(゜□゜)/
小堀遠州 : ばかたれが・・・
わしがせっかく作った庭園だというのに...
配下の者 : お奉行、まあ、そういわずに、
後水尾天皇の行幸は、徳川家にとって、
天下に
威厳を示せる一大事のことでござりますぞ。
小堀遠州 : ほな、お前に任せるし。
わしは、もう、きょうは、
ふてくされて、家帰って
お茶飲んで、ふて寝するわ。
【京都ハンディクラフトセンター】
山田の口の中は、
虫歯で、何本も、歯が抜けた寂しい口の中なのですが、
そのように、
ここ、ハンディクラフトセンターは、
地震以降、店舗が減り、
歯抜け状態になっております。
たとえば、ゴタの口の中が、
ブリッジという、偽物の歯が並んでいるように、
偽物でいいから、空虚になったビルを、
模擬店でいいから、店舗でうめ尽くしてほしい。
さて、東館は、3階と4階だけが店舗です。
4階は、さらに、真ん中が抜けて、北側店舗
と、南側店舗に分かれています。
(経営者は、別べつ)
【昼食】
お昼は、岡崎の「うどん屋」に入りました。
何度か、お客さんを連れてきていますので、
お店の方は、我々を奥座敷に案内してくださいます。
落ち着くので、いいお店だと思います。
【三十三間堂】
山田 : The Sanjusangen-do was founded in 1164
at the demand of the Emperor
Goshirakawa.
The literal meaning of Sanjusangen-do
is Hall of thirty-three bays.
The bay means the space between pillars
not the bay where boats are
at anchor.
三十三間堂は、1164年、
後白河法皇の勅命で、造営されました。
三十三間堂というのは、柱間が、
33ある、お堂という意味なのです。
(以下、日本語訳不可)
みなさん : Splendid !
見事だなあ。
山田 : Offering Buddha a compliment
gives back virtue to you.
仏さまをほめるのは、
徳となって、返ってきますのやで。
みなさん : Are these all Buddha ?
これって、みんな、仏様なの?
山田 : Almost Buddha.
They are on the way to become Buddha.
They are now training
to gain enlightenment.
Their training theme is
to give mercy others.
ほとんど、仏様です。
修行してはりますのや。
慈悲を施す修行をして、
悟りを得ますと、仏様になります。
みなさん : Mercy to others ?
その慈悲は、他人に施されるの?
山田 : For us, I mean.
私たちにって、ことだよ。
中尊は、千手観音座像です。1254年、湛慶により、完成。
その数年前の1249年、三十三間堂は、火事で、焼失。
このとき、156体の観音像と、28部衆が救出されました。
1266年、三十三間堂の落慶法要が営まれました。
【高島屋】
京都の高島屋は、四条河原町という市街地の中心に位置します。
なので、車を待機させる場所が難しい。
我々の車は、ジャンボタクシーのサイズなので、一般駐車場には、
駐車が難しいのです。
そこで、一旦、高島屋で、みなさんを下車させ、
みなさんだけで、高島屋に行ってもらいます。
山田は、車のお守をします。
ねんねんころりよ~
高島屋でのお買い物は、延々、1時間半に及びました。
山田、同一場所での駐車は、15分が限界と思い、
10分ごとに、移動。
はじめ、初め、柳馬場に15分。次の15分間は、富小路。
それから、麩屋町に、15分待機。
そして、御幸町で、15分。そして寺町京極で、また15分。
それでも、お戻りになりません。
もう、これで、戻ってこなければ、電話を入れて、
「ぐるりと、河原町~御池~烏丸~四条
と一周してくるから、あと30分ゆっくりせよ。」
と言うつもりだったが、
新京極に移動したところで、お戻りになりました。
このあと、「幸游館」 に戻り、本日の業務は、終了。
おしまい
山田 錦