道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺に位置する神社です。神社


道を隔てた隣の敷地には道明寺という真言宗の尼寺があります。


御祭神は菅原道真公、天穂日命(あめのほひとのみこと)、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公(かくじゅにこう)。

 

 

御祭神の天穂日命(あめのほひとのみこと)は高天原で須佐之男命と天照大御神が誓約をした際、須佐之男命が天照大御神から勾玉を譲り受け、天眞名井の聖水をふりそそいで噛んで吹き捨てた息から生まれた五神のうちの一柱です。

天穂日命は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の弟神。

 

古事記によると、国譲りの交渉のために出雲の大国主神の元に高天原から遣わされましたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻りませんでした。


その後、天穂日命は出雲にイザナミを祭る神魂神社(かもすじんじゃ、島根県松江市)を建て、皇子の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は出雲国造らの祖神となったとされています。

 

 

 

 

 


この辺りの地は、菅原氏祖先に当たる野見宿禰(のみのすくね)の所領地でありました。


野見宿禰は天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとるために出雲国より召喚されます。

 

蹴速と互いに蹴り合った末に勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、この地に留まり以後垂仁天皇に仕えます。

 

そして、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師(はじ)の姓を与えらます。

 

土師氏の誕生です。

 

土師氏がこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、遠祖天穂日命をお祀りしたのが土師神社の始まりで、その後、仏教が伝来し推古天皇の2年、聖徳太子の発願により土師八嶋(はじのやしま)が自宅を喜捨し土師寺が建てられました。

 

やがて土師氏は、桓武天皇に姓を与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていきます。
道真の曾祖父は,“大和国菅原邑”に住んでいたことから, 菅原氏を名乗ったとされています。

 

 

平安時代、土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真が九州の太宰府に左遷される時に、伯母に別れを告げるために土師寺に立ち寄ったと伝えられます。

 

天暦元年(947年)、土師寺は道明寺と名前が変わります。「道明」というのは、道真の称号に由来します。

 

明治の神仏分離の際、土師神社と道明寺を分け、道明寺は道を隔てた隣の敷地に移転し、1952年(昭和27年)、土師神社は「道明寺天満宮」と改称しました。

 

 

 

 

元宮土師社(道明寺天満宮内)

ご祭神は建比良鳥命(たけひらとりのみこと)・野見宿祢(のみのすくね)・大国主命(おおくにぬしのみこと)の3柱です。

野見宿祢は相撲の祖と言われるようになり、この土師社の前、鳥居の少し奥には、元前頭筆頭の関取「花ノ国」の手形の石碑があります。

 

 

 

 

 

道明寺天満宮の御本殿は本殿・幣殿・拝殿の構造からなる権現造り。
創建年代は詳しくはわかりませんが、江戸時代初期に建てられ、中ごろに移築されているのではないかと言われています。

 

 

 

 

 

 

 

道真は、梅の花を愛していたと伝えらていて、 境内には80種800本の梅の木があります。

また、桜もとてもきれいで、毎年たくさんの人がお花見に訪れています。桜

 

 

 

 

 

なでうし

自分の身体の悪いところをなでるとよくなるそうです。

境内には牛の像がたくさんありますが、これは御祭神の菅原道真が、承和十二年(845)・丑歳の生まれであり、 牛は天神様のお使いと言われることがその由縁のようです。

 

 

 

 

道明寺天満宮の道明とは、菅原道真の称号だったんですね(ノ゚ο゚)ノ

土師寺から道明寺となり、土師神社は道真が天神として祀られたことから天満宮となって、道明寺天満宮となったようです。

 

神社なのに道明寺というお寺の名前がついているなんて、ここに至るまでの長い歴史を感じます。

 

道明寺天満宮は道真ゆかりの地ということで、学問の神として今も地元の人々に親しまれています。

 

参拝した日は桜が満開でとてもきれいでした音譜

 

 

 

 

 

 

道明寺天満宮御朱印