後藤四郎兵衛家(大判座後藤)

江戸時代の大判鋳造を担った機関。小判鋳造を担った金座後藤と区別するための呼び名で正式の名称ではない。1588(天正16)年に豊臣秀吉が彫金師・後藤四郎兵衛家の5代徳乗(とくじょう)に大判鋳造を命じたのを初めとして,江戸時代を通じてその一族が大判を鋳造した。大判鋳造は当初京都の後藤家屋敷内で行われたが,明暦の江戸大火後は江戸でも行われ,元禄大判以降,江戸での鋳造が定着した



通常の大判は石地などの上で打ち延ばされ形状を整え、板金の最終工程では表面に横列の打目が刻まれ、その結果、裏面には石目の細かな凸凹の跡が全面につく。



裏面には、中央に

上 円形地五三裸桐紋極印

中 円形亀甲の双郭五三桐紋極印

下 円形単郭に改鋳当時後藤宗家当主花押極印

が打たれる。


江戸時代、後藤家は代々将軍家の御用達職人(町人)として、旗本並の格式を許された。


金銀彫物(「家彫」彫金の管理と、歴代「家彫」の鑑定業務)


大判金見役として大判の極め(大判の鋳造検定極印墨判包封鑑定修理再墨判業務


分銅改役として天秤用分銅の製造・販売極め(両替屋で使われる分銅は、後藤家の製造あるいは分銅改の検印があるもののみ、使用が認められた。)←大判座後藤の有力財源


をそれぞれ許され、これら三つの家職に従事した。これら家職をつとめるため、江戸と京都の拝領屋敷には「役所」が設けられ、彫物の細工所が常設され、大判分銅の吹所・細工所は必要に応じて随時設置され、鋳造目標量が達成されると解散した。





大判は基本的には通貨であったが、賞賜・献上・贈答など贈答儀礼の用途に使われるプルーフ貨幣であった。耐久性・実用性に重きをおく小判にはみられない銅を3%混ぜて金色に赤味を帯びさせ贈答用にふさわしい華麗な色彩に仕上げていた。



将軍家は、将軍宣下の時に朝廷に大判金を進献し、臣下である大名・旗本などに対しては、その功労に報いる行為の一つとして日常的に大判金を賞賜・下賜した。また伊勢・日光など将軍家ゆかりの大神社へ定期的に大判を奉納する慣行があった。



大名は、勅使饗応役に選ばれると、有識故実に明るい高家と呼ばれる者に朝廷関係の儀式典礼を教わることになる。その際に、はじめに馬代(ばだい:馬を贈る代わりの金銀)といった名目で大判金を一枚、任務を果たした後にさらに大判金一枚を教えを受けた高家に贈る慣習になっていた。

このように臣下である大名旗本も、幕府の公式な年中行事の際の祝儀として大判金を用い、また自らの家督相続、叙爵などの際の将軍家・朝廷への進物に大判金を用いた。



しかし大判金は次第に商人の手に渡り退蔵されてしまった。

上記のように大判金の必要度の高い武士階級ではその不足が顕著化し1837(天保8)年には、交換価格が天保小判 32両にまで暴騰してしまい、享保大判と同形式であり金品位も近い吹き増し大判と呼ばれる天保大判が翌年発行されることになる。天保大判(1,887枚)の発行により、ようやく交換価格も下落し天保小判  20両2分で落ち着いた。



大判金の裏面の左下部には験小極印(けんしょうごくいん)が3個、打刻される。これは時代によって異なるが、おおむね大判金の製作に従事した判師延屋、および金見役の3人の極印である。



験小極印の組み合わせを「上部右下左下」の順で示せば、次のように験小極印の人物が特定できる。

」は金見役の松岡右衛門

」は判師屋(山田)五兵衛

」は延屋内次郎兵衛


享保大判には左下に

」、「」、「」、「」、「」のいづれかの組み合わせで極印が打たれている。


後藤家は祐乗を始祖として、「彫り物後藤」とか「目貫後藤」などと呼ばれる有名な金工家であり、室町幕府8代将軍・足利義政(応仁の乱の元凶となったポンコツ将軍。銀閣寺を建立)に仕えた。以後、足利家・織田家・豊臣家・徳川家と、常に時の権力者と深く結びついて家を存続させて、江戸時代末期の十七代・典乗にまで至る。一般金工家が町彫と称したのに対し、後藤家は家彫と称して区別してきた。



織田信長豊臣秀吉の彫金師として刀装具の御用達をつとめた後藤四郎兵衛家は、5代・徳乗が叔父の祐徳などと1588(天正16)年から秀吉の天正大判鋳造に携わる。


1592~1595年(文禄年間)以降に徳乗の弟子であった橋本庄三郎は、徳乗の名代として徳乗の長乗(病気を理由に程なく帰京)に伴って江戸に下り徳川家康に仕え、徳乗から後藤の苗字と光次の諱(いみな)、「扇形単郭に五三桐紋」の験極印の使用が許可された。その後、後藤庄三郎家代々金座を支配して金座後藤と呼ばれる事になる。←(『家康、江戸を建てる / 門井慶喜著』の中の「金貨を延べる」に登場する庄三郎)


家康の大御所政治時代に庄三郎は、その財政・外交顧問として権勢を欲しいままにするほど台頭した。豊臣秀頼が京都東山の方広寺大仏殿再建の費用にあてるため1608(慶長13)〜1612(慶長17)年に鋳造した天正大仏大判も、徳乗は弟長乗を仲介役に万事、家康庄三郎の指示を仰ぎながらの大判鋳造を強いられ、後藤宗家当主とその弟子筋という力関係は完全に逆転した。



大判の鋳造に携わった人々

・法定金位まで精錬する吹師(ふきし)(吹方

・判金整形までを担う判師(ばんし)(延方

・細工を担う延師(のべし)(延方

・金色を引き出す色付師(いろつけし)(色付方

・「拾両後藤(花押)」の墨判を担当する後藤四郎兵衛家当主


参考文献

「近世大判座・金座と金貨の研究 : 豊臣秀吉の天下統一から戊辰戦争期の金座接収まで」

著者:西脇康

頒布者:吉田圭吾

頒布所:Studio K5 (スタジオケーファイブ)書籍部

ページ:16, 628 p

大きさ:27cm

ISBN:9784991405914

初版印刷 2025年6月10日

初版発行 2025年6月23日

頒布価格:20,000円


「江戸の貨幣物語」

著者:三上隆三

発行所:東洋経済新報社

発行日:1996年3月14日

大きさ:20cm

ページ:viii, 308p

ISBN:9784492370827

本体価格:2,200円


おしまい爆笑

享保大判金(きょうほう・おおばんきん)



(後藤四郎兵衛十六代  方乗(ほうじょう)墨判)


8代将軍 徳川吉宗

(在職 1716年〜1745年)

の時代に鋳造された大判金


品位 金676/銀324 

量目 165.38g(金113g)

長径 15.3cm(5寸5厘)

短径 9.4cm(3寸1分)


鋳造期間

享保10年(1725年)7月6日〜

享保11年(1726年)9月25日

(1年4か月間)


鋳造枚数8500

平均日産は約30


通用期間

享保10年12月1日(1726年1月3日)〜

万延元年4月10日(1860年5月30日)



表面の上下左右の四端に円形単郭五三桐紋極印(ごくいん)が一個ずつ打刻される。


中央には、「拾両後藤(花押)」と大判の「極め」(鑑定銘)が、吹き替え時の後藤四郎兵衛家当主直筆で墨書され、これを墨判(すみはん)と称した。


130年以上流通したことから初筆墨判(十二代 寿乗)の書き改めも頻繁に行われたため後藤四郎兵衛家六代に亘る墨判が存在する。


十二代 寿乗(家督:1722〜1742年)

十三代  延乗

十四代  桂乗

十五代  真乗

十六代  方乗(家督:1835〜1856年)

十七代  典乗

の墨判が存在する。


墨筆によって質量・金位を保証する極め判(書判・花押)がすえられたことを意味する。「拾両」とは一両小判10枚の意味ではなく、「金十両」という大判の重量44匁(もんめ=165g)を表している。

金一両」は元来、「一両(10)」の重さの砂金という意味であった。


1匁(もんめ)=一文銭一枚の重さ3.75g現行の5円玉一枚の重さ


金一両10匁10 Ⅹ3.75g =37.5g の砂金

金十両(拾両)100匁1003.75g =375gの砂金


しかし、次第に質量と額面が乖離するようになり文明16(1484年)室町幕府により金一両4.5匁と公定され、安土桃山時代の元亀、天正年間には、4.4匁へと変更された。


1匁(もんめ)=一文銭一枚の重さ3.75g


金一両4.4匁4.43.75g=16.5g の砂金

金十両(拾両)44匁443.75g165gの砂金=大判一枚の重さ=一文銭44枚の重さ現行の5円玉44枚の重さ

の時代の武徳4(621年)に造られた「開元通宝」は、円形、方孔で周郭をもち、吉祥語を銭銘としており、以後銅銭の定型となり、唐代のみならず五代十国時代まで約300年にわたって流通した。


開元通宝は半両銭五銖銭の形態を継承し、直径は8分(約2.4cm)である。この銅銭1枚の重量は、一両(大両)の10分の1(約3.73g)であり、ここから重量の単位である「」が生まれた。

の時代になっても、開元通宝は宋銭とともに中国で大量に流通しており、品質も安定していたので、重さを量る基準としても広まっていき、開元通宝1枚の重さが「1銭」だと宋の時代に公式に決められた。

開元通宝は日本でも渡来銭として宋銭などとともに使われており、当時の日本の重さの単位も宋から伝わった「」が公式のものだった。しかし、日常的に銅銭のことは「1文」と呼ばれており、その1枚の重さは「1文の目方」、つまり「文目(もんめ)」と呼ばれるようになっていき、やがてその音に「」という字があてられるようになり「1匁(もんめ)」という重量単位が誕生した。

時は流れ、明治24(1891年)の度量衡法によって、1貫が1kgの15分の4、つまり3,750gと定められ、その1000分の11匁3.75g)と決められ、「」が「」に変わって正式な重量単位となった。

1貫3,750g =1000

さらに時は流れ、「」は、店で重さを量って品物を売る「量り売り」の基準となるなど、昭和30年代までは日本人には身近な単位だったが、計量法の改正により、昭和34(1958)年12月31日限り(土地と建物の計量については昭和41(1966)年3月31日限り)で取引や証明に尺貫法を用いることが禁止され、「」を基準とする「」も使われ無くなった。精肉店の店先で「豚のこま切れ200匁ちょうだい」とかいう西岸良平的な会話も無くなった訳だ。

ただし、真珠の質量を計るための「もんめ(mom)」単位は、国内外において広く用いられている単位のため、真珠の質量の取引又は証明の用途に限り現在でも日本国内で使用することが許可されている。


実際、宝石の「カラット(ct)=0.2g」、金貨の「トロイオンス(oz)=31.103g」と同様にもんめ(mom)=3.75g」、「momme(もんめ)」が真珠の国際的取引単位として現在でも世界中で使用されている。かつて日本の養殖真珠が世界を席巻していた証ともいえる。

1匁の語源「一文銭」の「」は、江戸時代には長さの単位としても使われていた。1文の長さは「一文銭の直径」約2.4cm。


昔から銅銭のことをおあし(御足)と呼んでいたこともあって、「御足」=「足袋(タビ)履き物」の大きさ・長さを表すときに、その寸法に一文銭が何枚並ぶかで表現した。江戸時代には足袋生産用に「」単位(2.4cm区切り)の物差しが使用され文尺(もんじゃく・もんざし)と呼ばれていた。


使用例:ジャイアント馬場の16文キック=「16文X2.4cm=38.4cm」のリングシューズから繰り出されるキック。


一文銭は、唐の時代の開元通宝から江戸時代の寛永通宝まで、重さも直径も殆ど変ることなく鋳造されており、庶民にとっては見慣れたサイズ感であり・使い慣れた重量感だった。

享保大判  165.4g  (金68.4%)→113g

享保小判  17.78g (金86.7%)→ 15g

享保一分判 4.445g (金86.7%)→ 3.85


大判金として初めて公式に通用価値が設定され享保小判金と享保一分判金に対し七両二分と交換価格が公定された。


田中貴金属

2025年12月12日 14:00公表

金1gの店頭買取価格 23,390円X113g=2,643,070

大判の墨判は、墨にニカワなどを混ぜて揮毫されたが、概して剥離しやすく、儀礼使用に際しては判賃を支払って大判座で書き改めて貰うことが一般的であった。これを墨判の「認め(したため)替え」と称する。大判では贈答儀礼の用途としてふさわしくない、極めの墨書が剥離・損傷したものや、表面の金色の落ちたものを、大判座で再極め(「手入」と称し、「色揚(いろあげ:表面の銀分を除去して金色を引き出す)」と「再墨書」)が施された。

参考文献

ニッポンのサイズ図鑑 : イラストでわかる

原作:石川英輔

編者:淡交社編集局

発行所:淡交社

発行日:2020年2月16日

大きさ:19cm

ページ:161p

ISBN:9784473043672


良い子はアンティークコインなんか買わないでね^_^

おしまい爆笑