新田神社/東京都大田区 | Goshuinnistの神社巡り

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ご訪問いただきありがとうございます。神社巡りが趣味の大学生です。有名な大社から地元の鎮守さままで、訪れた神社を紹介しています。情報は筆者が参拝した当時のものです。週1~2回、基本的に19:00更新です。

 

基本情報

神社名:新田神社

御祭神:新田義興公

社格等:府社

鎮座地:東京都大田区矢口1-21-23

最寄駅:武蔵新田駅

駐車場:社務所前にあり

御朱印受付時間:9時00分~16時30分

公式サイト:https://www.nittajinja.org/

 

御由緒

 清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称しました。新田義興公はその七世の裔(えい)新田義貞(よしさだ)公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。
 義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元2年12月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌3年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平7年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。
 その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。
 竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出しました。
 正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。
 舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました。
 そして、同年10月23日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。
 その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。
 この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉られました。これが新田神社の起こりです。(※大明神とは神様の中でも特に霊験あらたかな御神徳の高い神様をいいます。
例 稲荷大明神や神田明神などがあります)
 江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「新田大明神縁起絵巻物(都文化財)」や「新田神君碑(大田区文化財)」の奉納などもあり、武運長久の守り神として、武家信仰の神社として栄えました。その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まりました。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されています。
 また新田神社が江戸日本橋から約4里(17km)のところにあり、「十万庵遊暦雑記」や「調布日記」などの紀行・案内書類に記されていますように、目黒不動・大鳥神社→池上本門寺→新田神社・十寄神社→古川薬師などへとぬける当時の絶好のハイキングコースのひとつでもありました。
 その後、明治6年1月に府社に列し、同42年9月には特旨を以て、御祭神に従三位が追贈せられました。

公式サイトより

 

新田義興

 新田義興とは、南北朝時代の武将。新田義貞の次男。

 幼名は徳寿丸。その生母について『鑁阿寺新田・足利両氏系図』によれば上野国一宮抜鉾神社の神主・天野時宣の娘とされる。義貞の長男義顕は金ヶ崎城の戦いにて戦死したが、義興は出自が低い側室の子であることから重用されず、三男の義宗の方が地位が上であった。

Wikipediaより

 

Wikipediaより

 

御朱印

初穂料:500円
※兼務社の矢口氷川神社の御朱印も戴ける。
※その他、行事に応じて限定御朱印の頒布あり

 

御朱印帳

黒地に新田義興の兜と破魔矢、当社の御神木が刺繍されたデザイン。16cm×11cmの通常サイズと思われ、初穂料は朱印料なしで1,200円。

※筆者は拝受していないため、情報のみ記載。

 

境内案内

武蔵新田駅前の商店街を抜けた先に鎮座。どこか時間がゆっくりと流れているように感じられる。
 
当社の社号碑は平成三十年の御鎮座660年に合わせて文字部分が金塗りとなった
 
手水舎には金魚が浮かべられており、涼を感じることができた。
 
派手さはないものの、重厚感を感じる社殿。
 
当社のユニークなものの1つとして石の卓球台がある。社務所に声を掛ければ、実際に使えるとのこと。
 
胴塚の近くには祟りとして恐れられていた「うなる狛犬」。
 
経大の一角には風鈴も飾られており、大変涼しげである。
 
社殿左脇には当社が発祥とされる破魔矢の巨大なオブジェ。
 
社殿向かいには稲荷社と、当社の御神木である樹齢700年の欅。御神木に触れると健康長寿・病気平癒・若返りにご利益があるとされる。
 
「LOVE神社」として積極的にPRも行っており、参拝者からの人気も高い。
 

参拝を終えて

鎌倉時代に活躍した新田義興公を祀る当社。日本史でたびたびその名を目にする矢口の渡しがこの近辺にあると知り、どこか感慨深い思いがする。当社の奥には胴塚があり、参拝時に自然と背筋が伸びた。また卓球台の設置など神社とは一見関係ないような取り組みを通して、今まで堅く近寄りがたかった神社の雰囲気を覆して、地域と新たなつながりを作ろうと努力していることが窺えた。

 

地図

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