師岡熊野神社/神奈川県横浜市 | Goshuinnistの神社巡り

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ご訪問いただきありがとうございます。神社巡りが趣味の大学生です。有名な大社から地元の鎮守さままで、訪れた神社を紹介しています。情報は筆者が参拝した当時のものです。週1~2回、基本的に19:00更新です。

 

基本情報

神社名:師岡熊野神社

御祭神:伊邪那美命・事解之男命・速玉之男命

社格等:県社→郷社

鎮座地:神奈川県横浜市港北区師岡町1137

最寄駅:大倉山駅

駐車場:境内裏手に30台分あり

御朱印受付時間:8時30分~17時00分

公式サイト:http://www.kumanojinja.or.jp/

 

御由緒

 この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724年)に全寿仙人によって開かれ熊野山の中腹に鎮祭し和歌山県熊野三社の祭神と御一体であります。
 仁和元年7月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わりそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は1060回余にもなる。
 観応2年6月17日雷火のため社殿は消失したが神体、社宝は無事であり特に貞治三年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝へて居る。例へば勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)参向儀式の行われた式坂、更にいの池(指定地域史跡)、のの池、ちの池の故事等、枚挙にいとまがない。
 享禄2年北条早雲公、慶長4年徳川家康公、寛永19年家光公、寛文5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め代々の将軍家の崇敬極めて篤く神社への御朱印は幕末まで続けられた。
 明治元年神仏分離の際、熊野神社と法華寺とに二分され明治3年県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治6年三十三ヶ村の郷社に列した。

 その後、各所の整備造営工事を行ってきたが、平成17年「平成の大修造」と称し、覆殿・翼殿をはじめとする壮大な造営事業を実施し、更に平成26年「平成の大修造第二期」に着手し、手水舎新築、境内社整備参集殿改修等の事業を完遂し面目を一新した。
 当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として、また、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。

公式サイトより

 

御朱印

初穂料:志納

 

 

境内案内

大倉山の住宅街のなかに鎮座。近くを走る県道2号線上にはこのような社号碑。
 
少し広くなったところに当社が鎮座。
 
急な石段を上ると、大きく大変立派な社殿。
 
境内右手には平成の大修造のときに奉納された細石。
 
境内裏手にはこのように水が流れており、季節の花々とともに落ち着いた時間を過ごすことができる。
 
「い・の・ちの池」伝説でも知られる当社。「いの池」は当社の目の前に残っており、休憩所となっている。
 
「のの池」は境内に現存。小さいながらも現在でも大切に保存されていることが窺える。なお「ちの池」は現存しない。
 
神使の八咫烏にちなみ、サッカー神社としても有名な当社。サッカー守以外にもサッカー関連の授与品が充実している。
 

参拝を終えて

「い・の・ちの池」伝説で知られる当社。大変不思議な言い伝えであるが、調べれば調べるほど興味深く面白い内容であった。住宅街ということも相まって、初詣時などは参拝者が多く、「い・の・ちの池」が揃っていた頃から永きにわたり崇敬を集めてきたことを示すようである。

現在では神使の八咫烏にちなみ、サッカー関係者やJリーグのサポーターなど広く崇敬を集め、界隈では有名なようである。

 

地図

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