少女は、自分が輪郭のない白い空間にいることに気がついた。空も、大地も、すべて白一色に染まった奇妙なそこに、少女はいたのである。
「ここは?」
ポツリと呟いた一言も、その空間の中で掻き消えていく。地平線もないこの空間では、声さえその役目を果たさないのであった。彼女の他は何もない、平坦な空間。別次元に迷い込んでしまったのだろうか?そう少女は悩みこんだが、そうではなかった。ここは確かに、彼女のよく知る世界なのだ。ただ、何もないというだけで……。
ただ考えるだけではらちが明かないと考えた少女は仕方なく、一つの方向へ歩いてみることにしたが、行けども行けども何もないのだ。白と、白と、白。白としか言いようのないこの空間。白しかないこの異様な空間。それは確かに一つの空間であったが……空間として成り立っていないのではないかという、不安定さを持っているのだった。
だがしかし、少女はこの空間に存在する唯一の物であろう一つのドアを見つけた。白い空間に、大穴を空けたような赤いドア。確かに、ここに存在する、赤いドア。少女は一瞬、何かを思い出しかけたが、すぐにそんなことは忘れて、迷わずそのドアを開けた……。
「先生、重体患者が一人運ばれてきました。」
「うむ。それで容体は?」
「意識こそ戻らないものの、安定してきましたので、集中看護室に移しました。」
「そうか。ところで、あの少年はどうなった?」
「あの少年というと……意識はないのに、絵を描き続ける少年のことでしょうか。」
「そうだ。今も彼は、その――絵を、描いているのか?」
「ええ。……今日は、何か町のようなものを描いていました。」
「奇妙、実に奇妙なことだな。一体どうなっているのだ……。」
ドアの先には、実に奇妙な空間が広がっていた。淡い色彩で描かれた桜色の屋根。森永商店と大きく書かれたお店の看板。ガラス一つ一つが光を放つビル。町の中心にある白群色をした電波塔。輪郭があるはずなのにどこかぼやけた、幻想的な世界。町だ。町なのだ。確かに町のはずなのだ。だが、誰も。誰もいないのだ。町だけがそこにある。そんな奇妙な空間がそこにあったのだ。家も、お店も、ビルも、電波塔も……。人の気配一つしないのに、あるのだ。これほど奇妙な空間があるだろうか?
少女は、人を探すべく、さまざまな場所を探した。しかし、誰もいない。人の生活した跡さえないのだ――少女は、自分が気が狂ってしまったのかと思ったが、その建物たちに質感があることで、何とか気を保った。だが、少女は突然とても強い倦怠感に襲われ、地面に仰向けに倒れ、一言呟くと、そのまま意識を失った。
「寂しいよ」
そう、呟いて。
「先生!大変です!患者が――患者さんが!」
「どうしたんだいきなり。まずは落ち着きなさい。なにが、どうなった?」
「患者さんが……みんな意識が無くて、誰も……誰も目を覚まさないんです!」
「待て。意識が無い……?どういうことだ?」
「今は人工呼吸器で呼吸をさせていますが……、その、なんといいますか、まるで脳死状態みたいなんです、一人残らず。」
「それはつまり……患者が、全員自発的な呼吸ができていない上、瞳孔が広がっているということか?」
「はい。……ただ、みんなまるであの少年のように腕や足が動くんです。」
「こんな……こんなことは聞いたことが無いぞ!一体どうなっているのだ!」
少女が目を覚ましたとき、町は今までとは何かが違っていた。人だ、人がいるのだ。少女が意識を失う前には、寂れた町だったそこは、今ではたくさんの――とはいっても視界に入るだけでも100人ほど、町全体でみれば500人程度ではあるが、まさしく活気の溢れた町になっていたのだ。少女はその事実に驚きつつも、ではいったいこの町はなんなのだ、それを知るために散策を始めた。家からは明るい会話が聞こえ、商店街からはさかんに値切り交渉をするおばさんの姿が見える。ビルからは明りが洩れ、電波塔からも電波がビリビリと出ている。確かにそこには町が――つの町があるのだ。どこにでもあるような、そんな町が。
だが、一つ、たった一つだけ、少女は何かが違うことに気がついた。人々がどこか違うのだ。他の町なら一人くらい無表情だったり、暗い顔をしているものだが、そんな人はどこにもいない。皆、明るい顔をして、楽しそうに生活している。それが本来町にあるべき姿なのだろうが、少女は恐怖を覚えた。皆心の底から笑っている。皆心の底から喜んでいる。それが当たり前のように、なんの疑問も持たず生活しているように見えたからだ。彼女の本能が、ここは危険だと激しい警告音を鳴らした。今まで幻想的に見えていた空間が、町が、世界が、とても恐ろしい何かに見えてしまって、少女は目をしっかりと閉じた。だが、視界が閉じられたことによって、それ以外の感覚はより強まってしまう。聴覚が、嗅覚が、触覚が――感覚の全てに、この世界が染み込んでくる。耳を塞いでも、息を止めても、それでもなおあの電波がバリバリと皮膚を刺す。
堪らなくなって、少女は駆けだした。何処かこことは違う、何処かへ行きたくて、辛くて、泣きたくて、感情が溢れだしそうで……、無我夢中に少女は逃げ出した。
「どうだ、第一回脳死検査の結果は。」
「駄目です、誰も反応がありません。」
「なら、例の少年はどうした?彼もなのか?」
「ええ、反応はありませんが。」
「なら、絵は何か変わっていないか?」
「絵……町の絵に、人がいたようですが……。」
「そうか、人がいたか……。」
「奇妙ですね、先生。彼のような状態に皆陥るなんてことがあるのでしょうか?」
彼女が電波さえ感じなくなって、ようやく目を開けたのは、町から何kmも離れた頃であった。何も感じなくなって、安心したと言えるかは微妙であるが、彼女にとってはあの状況より遙かにマシであった。
何もない、白い空間――また元の空間に戻ってきてしまったのかと一瞬少女は焦ったが、そうではなく、少し歩いた先に小さな診療所があった。白い空間に白い診療所。いささか奇妙な光景だったが、少女はホッとした。さっきまでいた町とは違い、そういった恐ろしさはなかったから、今まで見てきた建物とは違い輪郭がはっきりしているから、理由は分からないが、とにかく、少女はホッとして、白いドアを開けた。
ドアを開けた先には、やはり、白い壁に白いベッドがある。ここがとても小さな診療所であることを実感して、少女は溜めていた息をフーっと吐く。そして、物音一つしない空間に少女はこう声をかけてみて、反応を待つ。
「誰かいますか……?」
しばらく待っても誰も来ないため、半ば諦めていたとき、ベッドの中から白い服を着た少年がモゾモゾと起きてくる。少年は肌も白く、病気でもしているかのような様子だった。
「君は……?」
少女がそう問うと、少年は起き上がり、診療所に唯一ある小さな窓を見ながら突然こう言った。
「僕には名前はないよ。この世界では。僕も。他の人たちも。そして君も。皆、名前なんてものはないんだ。あるのは抽象的な――少年、少女。男性、女性。そんな、ぼんやりとした名前しかないんだ。」
少女には、少年の言っている意味がわからなかった。解ろうとしても答えはスルスルと捕まえようとした手から逃げて行く。そんな少女を気にも留めずに、少年はこう続けた。
「この世界では、皆、幸せなんだ。不幸なんて一つもない。この世界にいれば、皆幸せなんだ。自分の夢が叶う。平和な家庭、お店を開く、汗水流して働く――。そんな夢が、誰でも平等に叶うんだ。町にいた人々の顔を見たかい?皆キラキラと顔を輝かせているだろう。あれは、皆自分の夢が叶っているからなんだよ。だからさ、君も……ね?」
そう彼が呟くと、ベッドの横にあったコンロで、やかんを温め始めた。やかんを包む炎はとても綺麗で……とても赤くて……炎……燃えて……!!!
少女は……瞬間のうちにすべてを思い出した。自分のことも。直前までのことも。そして、一つのビジョンを浮かび上がらせた。
あそこは……家だ。家が……燃えているのだ。少女の家は――燃えてしまったのだ。そしてその中に、彼女は……優衣はいたのだ!!!
「ああああああ!!!あ……あ……あ……。」
「どうしたの!?」
「私の家が……私の……私の……」
そうなのだ。優衣の家は、燃えてしまったのだ。誰かが……優衣の家に、火をつけた。個人的な怨恨か、はたまた、悪戯でやったのかはわからないのだが、誰かがやったのである。両親は家におらず、優衣ただ一人のときに、炎は燃え上がった。そして優衣は煙で気を失い……病院に運ばれたのだった。
「……そうか。優衣。全部思い出してしまったんだね。こことは違う……。現実世界の記憶を。」
少年はそう言うと、優衣が落ち着くのを待ってから、こう語り始めた。
「実はね、僕は君がここに来るよりずっと前から病院にいたんだ。意識はなくて、白い空間をただ漂っていたんだ……。だけどある時、僕は右手だけは現実世界で動かせることに気がついたんだ。僕の右手は、キャンパスを求めた。この何もない空間に何かを置きたかった。白を、いろんな色でごちゃ混ぜにしたかったんだ。病院の人たちは、僕の仕草を見て、キャンパスをくれたよ。そしてこの空間、死に一番近いこの“夢”という空間に町を創りあげたんだ。」
「死に……一番近い……“夢”?」
「多分、君は最初にその空間を見たんじゃないかな。そしてたまたま僕の世界に通じるドアを見つけた。一歩間違えれば……花畑に囲まれて、川を渡っていたと思うんだ。」
優衣は彼の言おうとしていることがなんとなく分かった。あの最初にいた空間は、所謂三途の川だとか、綺麗なお花畑と同系列にある空間だったのだろう。「僕はね、君のことをよく覚えているんだよ。君はもう覚えていないかな?昔近所に住んでいた病弱な男の子を……?」
優衣は記憶のバケツから、スコップを使ってその記憶を掘り出した。多分、いた。いや、絶対いた。あの男の子の名前は――
「まさか、さとる君!?」
「よかった、覚えていてくれたんだね。そうさ。僕はさとる。悟さ……。」
優衣の記憶から、彼の記憶が溢れだしてきた。幼稚園から、小学校まで一緒にいたさとる君。ある日いきなりいなくなって、それから学校にも、家にも来てくれなくなったさとる君……!
「悟君……ずっと、悟君は病院にいたの?」
「うん。とても、とても長い間。時間の概念なんてとっくのとうに忘れてしまったよ。」
優衣は、ここは死に一番近い場所なのだと思いだして、悟は、つまりずっとこの空間にいたのだと理解した。――そしてなんだか、とても彼が愛しくなった。
「悟君、……悟君!」
「君がそうやって呼んでくれたのはいつぶりだい?ああ、懐かしいね、何もかも。」
彼は背も、声も、何もかも変わっていたが、眼は、その優しげな眼だけは少しも変わっていなかった。優衣はその、悟の眼を見て、とうとうワッと泣きだしてしまった。
「まったく。君は泣き虫だなぁ。でもね、ここにいれば、そんな辛い感情すぐになくなるさ。だって、ここは“夢”の世界なんだから、ね?」
そうやって、悟はニコッと笑いかけたが、優衣には逆効果だった。彼が、遠い、遠い何処かへと行ってしまった気がして、そして恐怖を感じた。何も感じない、幸せしか感じない、死に一番近い世界でずっと過ごすと思うと、さっきまでとは違う涙が溢れてくる。
「……ねぇ。」
「どうしたんだい?優衣。」
悟は笑みを少しも崩さなかったことが、余計に怖くて、鼻声になりながらも、彼女はこう尋ねた。
「もう……こんなとこ、出ようよ……。」
その一言を聞いた悟は、先ほどまでの笑顔と打って変わって、鬼のような形相でこう怒鳴った。
「何を言っているんだ!ここを!出たって!いいことなんて!何も!何も無いんだ!!!君はそれがどうして分からない!?」
「私、嫌なの……幸せしか感じない、ここが、嫌なの……。だから――現実に帰ろう?」
「現実なんて!嫌なことしかない!いいことなんて何も無いんだ!!だから!!!だから!!!ここに皆で一緒に暮らすんだよ!!!君が望むことなら何だってする!現に君のためにこの町に人々を集めた!僕らはここで過ごす限り悩み事もないんだ!嫌なこともないんだ!」
「私と出会ったことも……嫌なことなの?」
「ッ!?」
「ねぇ、私のこと、嫌いなの?私と出会ったことも、私とお話したことも、私と遊んだことも、全部、全部嫌なことだって言うの?」
「そ、それは……。」
「現実には嫌なことしかないなんて嘘。いいことも、あるの。嫌なことがあっても、いいことが打ち消して――ううん、落ち込んだ分それが倍になって気分を明るくしてくれる。幸せだけじゃ、駄目なの。辛いことも、幸せなことも、両方あるからこそ“生きている”ことになるの。……ここから、出よう?」
優衣は涙で滲んでしまった視界越しに、悟を見た。涙でぼやけていても、彼の輪郭ははっきりと分かる。そして、彼のために、こう言った。
「好きだよ……悟君。」
「先生!大変です!患者が――患者さんが!」
「……どうした。」
「患者さんが……全員意識が回復しました!!!」
「なんと……信じられん。これは本当に現実なのか?」
「私もそう思って、点滴を自分に打ってみたのですが――嬉しいことに、現実だったようです。」
「ああ、ああ、なんと素晴らしきかな、この世界は!」
「先生!患者さんの様子を見に行きましょう!今すぐに!」
「行こうじゃないか、奇跡を見るために!」
優衣は、自分が輪郭のある白い部屋にいることに気がついた。天井も、床も、すべて白一色に染まったここに、病室に、優衣はいるのだ。
「優衣……!」
ふと横を見れば、両親が目を大きく見開いているのが見えた。目から、涙がこぼれるのも気にせず、両親は何度も優衣の名を呼び続けた。
「どうだね、体調は。」
そこへ、医師と思わしき一人の老人が病室に入ってきた。あまり髭を伸ばしていない医師は、顔のしわも薄く、とても若く見える。
「おかげさまで……先生、ありがとうございます!」
「礼なら、彼女自身にしてやってくれ。私たちはできることをやった。彼女はそれに答えてくれた。ただそれだけのことだ。」
そう言うと、医師は隣のベッドをチラッと見た。隣のベッドにも、中学生ぐらいだろうか、男の子が眠っている。彼の右手には鉛筆が握られ、その先にはキャンパスが立てかけてある。そのキャンパスには町と、人の絵が描かれていたが、全て黒く塗りつぶされていて、美しかったであろうその絵は役目を終えていた。
「大丈夫かね、少年。」
医師がそう尋ねると、少年は医師の方に顔を向けた。その顔に見覚えがあって、優衣は思わず声が出そうになる。少年は、――悟であった。
「はい。なんだか……長い夢を見ていた気がします。」
「君はもうここで、何年も。何年も眠っていたのだよ。何年も、絵を描き続けて。」
「そう……ですか……。」
悟は驚いた顔をして医師の顔を見たが、視界の端に映った優衣の顔を見て、さらに驚きの声をあげた。
「優衣……優衣じゃないか!」
「悟君!」
二人はしばらく見つめあっていたが、やがて悟のほうがクスクスと笑いながら、こう言った。
「そうだね、――あれは、夢だったんだね。」
悟の一言を聞いて、優衣はクスリと笑って、こう答えた。
「そうだよ、全部、夢だったんだよ。」
end