夏が終わる。そう錯覚させるような涼風が、私の横を通り抜けてゆく。日は既にその姿を地平に呑まれ、辺りには哀愁を感じさせる蝉の声が反響していた。昔、蝉の羽化を見たのはいつの日だったか。そのときも、私は夕闇に立ち尽くしていたような記憶がある。段々と暗くなってゆく大気の中で、その存在だけは翡翠の体に光を湛えていた。私はそれに、生命と死の狭間を垣間見た気がしていた。あの蝉は、無事子孫を残せたのだろうか――もう、何年も昔のことだ。
私は一人、ぽつねんと車止めの上に腰掛けていた。眼下に広がるビルや高速道路を見下ろし、その営みに溜め息をつく。人類の英知と愚行の象徴たちは私を知覚することだになく、せかせかと世界を創り上げている。ああ、愚盲は人の性なりや。「世界を創り上げた」という妄想に囚われ、そしてそれに気付かない。まったく、まったく嘆かわしいことだ、などと大仰な事を考える。その一部に属しているのが自らであるというのに、殊更それを意識していないのは、私も同じだった。
車止めの上で足を揺らす。ギシギシと金属の軋む音がして、車止めは共振した。慌てて足を止めると、揺れは止まった。さすがにここから落ちれば助からないだろう。首の辺りを嫌な汗が流れてゆく。私は鳥ではないし、ましてや哺乳類と鳥類の中間にいるどっちつかずの生き物でもない。うっかり車止めから足を滑らせれば数瞬後には美味しい生肉の完成である。縁起でもない。同じ生肉でも、私は食べる方がいい。食べられるのはゴメンだ。
カラスが私の真下を飛び抜けてゆく。その背は私の影に濡れ、黒く染まっていた。地方に行けばカラス以外も見えようが、生憎ここは帝のおわす都、東京だ。雁だの鷲だのがいるはずもない。さりとてスズメやハトは、私の影で塗るには少々小さすぎだ。故に、今の私と接点があるのはカラスぐらいなものだった。カラスに挨拶をすると、彼らは悠然と去ってゆく。不思議に感じてよく見れば、いつの間にかカラスの背は元の色に戻っている。ああなるほどね、と呟いた声も、彼らには届かないようだった。
私は今に至って、全ての焦燥から解放された気分になっていた。特に何がある訳でもなく、至極穏やかな気持ちだった。一刻前まではこの世の全ての絶望と、千辛万苦を抱えた代表選手であるかのような幻想に満ちていたのだが。これも全て、今私が座しているこの車止めのおかげであり、せいでもある。黄色のペンキが殆ど剥げ、鈍い錆が全体に浮かんだ、金属の集合体。公園の入口にある、アーチタイプの車止め。それは今、私を乗せて上空を浮いていた。なんてことはない、ただの車止めのくせに。
そもそも、私はビルの屋上にいたのだ。それがこうして今、車止めと共に雲のすれすれを飛んでいる。理由は単純にして理解不能、車止めが上空から私に飛びかかり、羽交い絞めにして空高く舞い上がったのだ。有体に言えば拉致というやつだろう。当然私は抵抗した訳だが、コレは一動の気配も見せず、悠々と東京タワーの遥か上まで私を連れ去った。さすがにそうなると、私も抵抗する気を失い、なすがまま、されるがまま、無為に時を過ごすしかなかった。
車止めは私が抵抗しないと見るや、拘束を解き、自らの背に私を乗せた。そしてそのまま、プカプカと浮いていた。私にはコレの考えが理解できなかったが、別段理解したくもなかった。往々にして、人生などそんなものだ。そう考えれば、理解せずとも諦念はついた。
紫紺の色の空が、その色を濃くしてゆく。いつの間にやら現界していた月が、黙して私を見つめている。私はその中に、確かに夕焼けの残滓を見た。雲が頬を撫ぜ、身震いするような風が私の呼吸となる。すっかり一人ぼっちになってしまった。最早これからどうしようもあるまい。私は背を宙に預ける。すると器用にも、車止めは身体の一部を曲げ、簡易的なベッドにしてくれた。親切心に感謝しつつ、これではまるでゼピュロスとクローリスの関係だな、と嗤った。私に帰るすべがない以上、コレに従うしかないのだ。これからどうなるなど、私は気にも留めなかった。ここまで人智を超えた出来事が起きたのだから、この先など分かるべくもないだろう。軋む音を立てる割に硬いベッドの中、私は昏々としていた。
次に目覚めたとき、私は月の中にいた。やはり考えるだけ無駄だったなと息を吐いた。そして当然のごとく、車止めは私の傍にいた。月の中は意外と広く、ともすれば車一台は余裕で入れそうである。壁は藍に薄く輝き、明かりがなくとも全容を見渡すには十分であった。いくつか外に張り出したところがあり、そこから遠く地上にあるビル群を確かめることができた。そして、人類の営みを眺めている私の中を、白い雲が通り抜けてゆく。存外低いところに月はあるものだ、とも思った。
私は、西洋科学にかぶれてしまった私に、世界の真実が優しく語りかけているのだと理解した。我々が、いかに矮小で物質的な存在であるかを、月は黙然に示していた。私はその訓戒を素直に受け止めることにした。
ふと、誰かの声がしたと思った。周囲を見回すが、人が存在している空間はどこにもなかった。かといって、車止めが言語を解している訳でもなさそうだった。車止めは、私が歩き回る後ろを、ペタペタと付き従うだけだった。
まあた、声がした。今度はどこから聞こえてきたのか、はっきりと知ることができた。その声は、内なる私の声であった。
「私に何の用だ」
「私が生まれるわ」
彼女は両肩をさすった。
「私は私だ、お前も私だ。生まれるも何も、もうここにいるじゃないか」
「私がいないから、あなたがいるわ」
「私とお前に境界があるのか」
「ないからいないのよ」
彼女は消えていた。
私は一人その場に茫然としていた。いつの間にか、私の背には車止めがいた。
「お前もいたな」
私が車止めをさすると、彼女も私の中へ融けていった。そっと私は目を閉じた。そして開くと、私は翡翠に輝いていた。
「私はお前だものな」
優しく体を抱くと、柔らかな感触が返ってきた。もう私に中身は存在していなかった。脆弱な外殻と、波打つ液体だけが、私の個であった。次第に、私が曖昧になってゆく。その中に、微かな産声を聞いた気がした。
月が破れると、そこには一人の女性がいた。彼女はその場に佇むと、身を一度限界まで伸ばした。その指先から、エメラルドの雫が地へ滴り落ちた。それから、彼女は空の彼方へ消えていった。
