慶長3年(1598年4月20日) 醍醐の花見。豊臣秀吉が秀頼らと最後の花見。
醍醐の花見=だいごのはなみ。
豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。
概要
豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆
約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された
北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られる。
記録に残るその日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、
3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に
側室ではない前田利家正室・まつが続いた。
宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い
(秀頼の生母として淀殿が優先権を主張したのに対し、松の丸殿は自身が
淀殿の出身である浅井氏の旧主だった京極氏の出身である上、淀殿より早く秀吉の
側室になっていた事を根拠に優先権を主張した)、北政所とは家族ぐるみの長い付き合いのまつが「歳の順から言えばこの私。」と、申し出て
その場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
(まつは家臣筋といえど、この席では客人。
客人をほうっておいて身内で順争いをするものではない為)
諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された八番の茶屋の路地茶屋の運営などにはあたったが、花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみである。
この花見で詠まれた和歌の短冊は今も「醍醐花見短冊帖」として三宝院に保管されている。