【11月26日(木)】
大安赤口先勝友引先負仏滅
六曜は赤口である。
●応徳3年1月3日 白河天皇が8歳の堀河天皇に譲位。
以後43年間上皇として院政を行う。
●治承4年12月14日
平清盛が都を福原から平安京に戻す。
●正元元年1月9日 後深草天皇が、
父である後嵯峨上皇により
弟の恒仁親王(亀山天皇)に譲位させられる。
皇位が大覚寺統と持明院統に分裂。
(大覚寺統=だいかくじとう)
鎌倉後期から南北朝時代、
持明院統と皇位を争った
亀山天皇の系統。
鎌倉幕府の干渉により
一時は交互に皇位に就いたが、
南北朝時代、
吉野に南朝を立て、
元中9=明徳3年
(1392)北朝と合体。
後宇多上皇が
大覚寺に住んだことによる名称。
持明院統
【大覚寺】
京都市右京区にある
真言宗大覚寺派の大本山。
山号は嵯峨山。
もと嵯峨天皇の離宮であったが、
貞観18年(876)
皇女正子が仏寺とした。
開山は恒寂法親王。
以後代々、法親王が入寺。
のち、後嵯峨・亀山上皇に続いて、
後宇多上皇が入寺して中興。
所蔵の後宇多天皇宸翰
「御手印遺告」「弘法大師伝」は国宝。
嵯峨御所。
大覚寺門跡。
(持明院統=じみょういんとう)
鎌倉後期から南北朝時代にかけて、
大覚寺統と
皇位を争った後深草天皇の系統。
南北朝時代は北朝として南朝と対立したが、
元中9=明徳3年(1392)
南朝を合わせ、
以後皇位を継いだ。
後深草天皇が
譲位後、
京都の持明院を御所としたので
この名がある。
大覚寺統
【持明院】
京都市上京区にあった、
藤原道長の曽孫基頼が
邸内に建てた持仏堂の名。
姓氏の一。
藤原北家道長流。
藤原基頼の子通基が
家名としたのに始まる。
●文禄2年1月17日 後陽成天皇の勅命により
『古文孝経』(慶長勅版)を印刷。
日本初の木製活字本。