【3月9日】
●弘化4年(1847年4月23日) 京都御所建春門前に公家の学問所を開設。学習院の起源。

●嘉永4年(1851年4月10日)‐ 江戸幕府が株仲間再興令発布。

株仲間(かぶなかま)とは、
問屋などが一種の座を作り、カルテルを形成することである。
株式を所有することで、構成員として認められた。

当初は同業の問屋による私的な集団であり、江戸幕府は当初は楽市・楽座路線を
継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して
幕府に対する脅威になる事を恐れて、慶安元年(1648年)から寛文10年(1670年)に
かけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象としていたが、
享保の改革において商業の統制を図るために組織化された方が望ましいとする方針の下に公認が与えられ、冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの
特権を認められた。

田沼意次時代にはさらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図された。自主的に結成された株仲間を「願株」、
幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。

株仲間の公認は、願株の公認を指す。

天保の改革を進めた水野忠邦は株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、天保12年(1841年)から13年(1842年)に掛け、冥加金の上納を停止させ、
株仲間の大半の解散を命じた(株仲間解散令)。

しかし、当時の経済の実態は農村工業の発達と新興商人が都市でも地方でも
台頭したことによって、株仲間の独占はむしろ形骸化しつつあった。

また、株仲間には代金不払いなどの不正を行った仲買の情報を共有し、仲間内の商取引を一切停止するといった懲罰を加えることにより、幕府などの公権力の代わりに
債権と契約履行を保証する役割があった。

ところが、水野をはじめとした幕府首脳は幕府権力の保護を受けた株仲間の弱体化や、
商取引の制度的基礎になっていたという現実を理解出来なかったために、
株仲間を解散させれば、全国的な流通網を動かせると考えたのである。
結果、かえって流通の混乱を招き、景気の悪化を招いた。

この政策に反対した町奉行矢部定謙は改易に追い込まれ、伊勢桑名藩で憤死している。

●安政3年(1856年4月13日) 長崎・下田などの開港地での〝踏み絵〟を廃止。

●明治元年(1868年4月1日) 山岡鉄舟が駿府城で西郷隆盛と会見。
恭順謝罪の意を訴えて徳川家を救う。

恭順= きょうじゅん。
命令につつしんで従う態度をとること。
「王に恭順の意を表する」
山岡鉄舟。
幕末の三舟の一人。
〝佐藤芸舟〟&〝勝海舟〟&〝山岡鉄舟〟

●明治5年(1872年4月16日) 薩摩・長州・土佐の兵1万人による天皇護衛の親兵を
近衛兵と改称。
今、皇居に居る警官がそれにあたるのではありませんか?