【2月24日の昔】
元弘3年/正慶2年(閏2月)(1333年4月9日) 鎌倉幕府により隠岐に流されていた
後醍醐天皇が、島を脱出し京に向かう。

天保14年(1843年3月24日) 南町奉行・鳥居忠耀の策略により
北町奉行・遠山景元が閑職の大目附に左遷。

安政元年(1854年3月22日) ペリー一行が横浜で有線電信機を実験。日本初の電気通信。

明治元年(1868年3月17日) 洋学者・柳河春三が、初の日本人の編輯による新聞
『中外新聞』を創刊。

明治2年(1869年4月5日) 天皇の東京滞在中は太政官も東京に置くことを決定。
東京奠都決定
東京奠都(とうきょうてんと)は、明治維新のさい江戸が東京とされ、
都として定められたこと。

京都との東西両京としたうえで、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に
江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に
天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。

幕末の京都は、大政奉還や王政復古により、政治の中心地となっていったが、
京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行うにあたって
遷都を行おうという声が上がっていた。
しかし、この時点では江戸の情勢が未だ安定しておらず、
主に大坂がその地として意識されていた。

大久保利通の大坂遷都案
鳥羽・伏見の戦い直後の慶応4年(明治元年)1月17日(1868年2月10日)、
参与・大久保利通は、総裁・有栖川宮熾仁親王に対して、天皇が石清水八幡宮に参詣し、続いて大坂行幸を行って、その後も引き続き大坂に滞在することを提言した。
これにより、朝廷の旧習を一新して外交を進め、海軍や陸軍を整えることを図るとする。さらに同年1月23日には、太政官の会議において
浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出するに至った。
その中で宮中の「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するために遷都が必要で、
遷都先としては大阪が適していると主張している。

しかし、大坂が京都に隣接しているとは言え、遷都を行えば

千年の都である京都を放棄することとなるとして、これに抵抗の大きい公卿ら保守派の
激しい反対を受け、同年1月26日に廃案となった。

続いて大久保は、副総裁・岩倉具視を通して、保守派にも受け入れられやすい親征のための一時的な大坂行幸を提案し、同年1月29日これが決定した。

大坂行幸と江戸城の開城
大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた
公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まった。
そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられた。

慶応4年3月21日(1868年4月13日)、天皇が京都を出発。
副総裁・三条実美ら1,655人を伴い、同年3月23日に大坂の本願寺津村別院に到着、
ここを行在所とした。天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの
大坂滞在の後、同年閏4月8日京都に還幸した。

同年4月11日には江戸城が無傷で開城されるなど、注目が大坂から江戸に移っていった。